かつてはお正月の風物詩だった百人一首。
現在は核家族どころか個々に過すことが多くなって、家族で百人一首を楽しむ家庭はほとんどないような気がします。
とはいうものの、授業の一環として取り入れている学校もあると聞きます。
そんな学校の生徒さんたちは100首すべて暗記しなければならないとか──、文字だけ音声だけで覚えるよりも視覚的刺激があるほうが記憶に残るのではないでしょうか。
日本人に限らず、海外にも和歌のファンが少なからずいるみたいですし。
1000年以上の長きに渡って親しまれてきた百人一首、日本の文化の一端ともいうべき百人一首について紐解いてみましょうか。
ここで取り上げているのは『小倉百人一首』です。
小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)
歌がるた(和歌の全句が書かれた読み札と下句のみが書かれた取り札から成り、取った札の多少を競う室内遊戯の一種)の一種で、その代表的なもの。藤原定家(さだいえ・「ていか」とも 1162~1241)が京都の小倉山荘で撰したと伝えられる100首の和歌(1歌人1首)が札に記されていることからこの名がある。札は和歌の全句を書いた読み札と下句だけの取り札(拾い札)各100枚に分れ、読み札には作者の肖像画が描かれているのが普通。この遊戯は江戸時代の寛永年間頃江戸城大奥の御殿女中たちの間から始り、元禄年間には遊女や武家の女たちに広がった。当時は文芸的、教育的要素が強かったが、明治中期以降、現在のような正月行事となった。遊び方は、読み手が読み札を朗詠風に読み、取り手が取り札を取る。取り手が2組に分れ、取り札も2分して競うのが「源平」、取り札を座の中央にまき、取り手ひとりひとりが競うのが「散らし」である。また読み札を裏返して積重ね、順次めくり捨てて坊主の札がくると拾い札を拾う(その逆もある)「坊主めくり」という遊び方もある。100枚をめくり終ったときの餅札の少い者が勝つ(その逆もある)。──『ブリタニカ国際大百科事典』
百人一首(ひゃくにんいっしゅ)
1人1首ずつ、100人の作品合計100首を集めた秀歌選の一種。最も知られるのは『小倉百人一首』で、これは天智天皇から順徳天皇にいたる100人の秀歌100首から成り、歌がるたとして広く民衆の生活に浸透し、古典和歌の普及に役立った。なお将軍足利義尚撰『新百人一首』をはじめ、「武家」「女房」「道歌」「英雄」などを冠した百人一首の類が多数つくられ、江戸時代には歌がるたとして流行した。──『ブリタニカ国際大百科事典』
◎小倉百人一首の鑑賞
小倉百人一首は、いまから千三百年ほど前の、大和時代から鎌倉時代のはじめまでの約六百年にわたって詠まれた、当代の代表的歌人百人の歌から、各一首ずつ選ばれた秀歌百首である。出典は、わが国ではじめての勅撰歌集で、和歌の伝統を確立した「古今和歌集」からの二十四首を筆頭に、「続後撰和歌集」までの、中世の和歌の代表的な歌が選ばれた十代勅撰和歌集である。
詠人は、第三十八代天智天皇から第八十四代の天皇順徳院まで、御鳥羽(ごとば)院と順徳院を別格にして、歌人の年代順に配列されている。
詠人の身分は、天皇八人、親王二人、関白、大臣九人、大納言、参議などの朝臣(ちょうしん)四十五人、女房二人、官女(かんじょ)十七人、その他菅家、人麻呂、赤人、猿丸太夫、蝉丸の五人で、男性七十九人、女性二十一人である。恋歌がいちばん多く四十四首、ついで雑、秋、春、冬、夏、旅の歌となっている。
◎900種こえる百人一首
百人一首とは、百人の歌人の和歌を一首ずつ選び、百首まとめた歌集である。なかでも、百人一首として知られているのは「小倉百人一首」である。本書も百人一首の一つである小倉百人一首である。百人一首には、足利義尚(よしひさ)が撰んだと伝えられる「新百人一首」や「後撰和歌集」から二条良基(よしもと)が撰んだとされる「後撰百人一首」をはじめ、「武家百人一首」「女房百人一首」「源氏百人一首」「道歌百人一首」「畸人百人一首」「花街百人一首」「現存百人一首」などがあり、明治時代には「古今百人一首」「明治百人一首」「教訓百人一首」などがあり、太平洋戦争中の昭和17年には、日本文学報国会撰「愛国百人一首」が刊行され、戦後は「平和百人一首」が出るなどある。
また、「続武家百人一首」「新葉百人一首」といった百人一首という名がつかない“百人一首”つまり「蔵笥百首」「万葉山常百首」「心学道歌古今百首」「古今和歌集一首撰」「近代百首」「当世通歌仙」、明治にはいってからの「名教百首」「明治英名百首」「明倫百首歌」「近世名婦百人撰」などが、研究者によって明らかにされている。
そして類書をふくめると、その数は900種をこすとさえいわれている。
このように多くの“百人一首”があるなかで、百人一首という場合は「小倉百人一首」をさすわけでそれがいかにすぐれた撰集であるか、いかに日本人に親しまれてきたものであるか、改めて、小倉百人一首の魅力がよみがえり、惹かれるのである。
◎小倉百人一首の原形
百人一首の名がはじめて文献に見えるのは、室町時代の末期で、一条兼良(かねよし)の著と伝えられる「とうてん暁筆(ぎょうひつ)」に出ている“今の世に百人一首と申し侍(はべ)るなり”という藤原定家の嵯峨(さが)山荘の色紙のことを記した文字が最初とされている。小倉百人一首は百人一首ともいわれているが、はじめは「小椋(おぐら)山庄色紙(しきし)和歌」、「小倉(おぐら)山庄色紙形(がた)和歌」「嵯峨山庄色紙形」などといわれ、「小倉百人一首」ともよばれたことが文献に見える。
小倉とか嵯峨というのは地名で、この「小倉百人一首」の撰者(異説がある)と伝えられる藤原定家の山荘があった、いまの京都市右京区嵯峨の小倉山のことである。
百人一首の原形は、定家の日記「明月記(めいげつき)」の文暦(ぶんりゃく)2年(1235、この年の10月に嘉禎(かてい)と改元)5月27日の記事などから、古来の人の歌を、定家が書いて、嫡男・為家の妻の父・宇都宮頼綱におくり、頼綱が嵯峨中院別荘の障子(ふすま)に貼った色紙である。
この小倉色紙ともよばれる色紙和歌は、一面に歌一首を四行書きにしたもので、作者名はない。「小倉山山庄色紙形和歌」という題名は、色紙を書き写して冊子にしたときにつけられたものとされ、現在のような「小倉百人一首」という名称が定着するのは、のちのことである。
◎小倉百人一首の成立と成書
百人一首の原形である小倉色紙の和歌は、「古今和歌集」から「新古今和歌集」にいたる八代集の中から、定家が撰した「二四代(にしだい)集」(1791首収録)から撰している。このときの元本として成ったと推定されるのが、百一人百一首の「百人秀歌」である。
この「百人秀歌」と現在の「百人一首」を比較すると、配列順はちがっても、97首が一致する。
こうして抄出した和歌を定家が書き、頼綱におくられたと考えられるが、この小倉色紙を「百人一首」という冊子にしたのは定家の子、為家である、という説が定着しつつある。定家が撰した和歌百首を為家がほぼ年代順に配列し、色紙にはなかった作者名と官位を記し、巻頭・巻末にそれぞれ天智・持統両天皇、後鳥羽・順徳両院父子の歌を揚げた、という説である。
もっとも、この説には異論があり、現在の百人一首の成立についても、文中元(1372)年前後とする説があるが、明らかではない。
◎小倉百人一首の内容
小倉百人一首は、奈良、平安、鎌倉の三期、約570年にわたる時代の、天智天皇から順徳院にいたる百人の歌である。百種はすべて勅撰集から撰ばれた歌で、「古今和歌集」から24首、「後撰和歌集」から7首、「拾遺和歌集」から11首、「後拾遺和歌集」から14首、「金葉和歌集」から5首、「詞花和歌集」から5首、「千載和歌集」から14首、「新古今和歌集」から14首、「新勅撰和歌集」から4首、「続後撰和歌集」から2首となっている。
歌の部立(分類)は、春の歌6首、夏の歌4首、秋の歌16首、冬の歌6首、恋の歌43首、雑の歌20首、覉旅の歌4首、離別の歌1首で、恋の歌が多い。ついで秋の歌が多いなど、心の歌を求めて撰したといわれる定家の和歌によせる気持ちがしのばれる。
◎かるた遊び・いまむかし
小倉百人一首のかるたは、一首全歌詞(5-7-5-7-7)が書いてある「上の句札」(読札)と、下の句(7-7)だけ書いてある「下の句札」(取札)と各百枚ずつある。かるた遊びは、読人(よみびと)が読札を持ち、取札を並べ、読人が作者の名前から読みはじめて、全歌詞を読むうちに、一座の人たちが並べた取札のなかからさがして取るのである。
いまは作者の名前を読まないのが普通であるが、むかしはいまのような早取り競技ではなかった。与えられ、並べた札のなかに出札(該当札)があれば、それを裏返しに伏せ、伏せおわった順に勝ちとなるしくみであった。
もっとも、出札があった場合には、右隣りに座った人にそのかわりの一枚を送る、あるいは月、雪、花の文字がはいった札が出た場合には二枚送る、などの“送り勘定”なども行われたようであるが、いわゆる「早取り競争」ではない優雅な遊びであったと想像される。
◎競技かるたの由来
小倉百人一首のかるた競技は優雅な娯楽である。もっとも、このかるた競技を「かるた道」として取り組んでいる人もおり、段位があり、名人戦があり、各種の大会がひらかれ、技を競い合っている。その競技人口は約18万人といわれ、年毎にふえつつある。女性の有段者も多い。正月に自宅で百人一首を楽しもうという人は、およそ400万世帯1千万人を超える。お座敷かるた、つまり、遊びにしても、それをより楽しくということで、それぞれ早取りの工夫がなされている。
小倉百人一首のかるた競技は、読人が上の句札(読札)で全歌詞を読むうちに、一座の人たちが下の句札(取札)をさがして取るわけで、早取りのポイントは歌を知っていることである。
お座敷遊びであった小倉百人一首のかるたを競技として、のちの盛況をもたらしたのは黒岩涙香(くろいわるいか)という人の努力に負うところが大きい。小説家であり、「萬朝報」新聞社の社長であった黒岩涙香氏は、ながい伝統をもつ小倉百人一首のかるたを科学的に分析研究し、早取り法をあみだし、従来の遊び方法を変え、1対1で対戦する競技方法を打ち出した。
その新しい競技方法による初の全国かるた大会が開かれたのは、日露戦争中の明治37年2月であった。これが全国各都市に波及、地元新聞社などの後援で、各地でかるた大会がひらかれるようになった。中心は東京かるた会で、毎年選手権大会が開かれ、現在にいたっている。
──『絵入り百人一首入門』佐藤安志・著(土屋書店)
This early translation of one of Japan’s most famous anthologies of poetry has preserved its charm for almost a century, and remains by far the most popular of classical poetry anthologies among the Japanese. The Hyaku-nin-isshu (literally “one hundred poems by one hundred poets”) is a collection of a hundred evocative and intensely human specimens of Japanese tanka (poetry written in a five-line thirty-one syllable format in a 5-7-5-7-7 pattern) composed between the seventh and thirteenth centuries and compiled by Sadiye Fujiwara in 1235. These little gems consist almost entirely of love poems and picture poems intended to bring some well-known scene to mind: nature, the round of the seasons, the impermanence of life, and the vicissitudes of love. There are obvious Buddhist and Shinto influences throughout. To make the sounds more familiar to English readers, the translator has adapted a five-line verse of 8-6-8-6-6 meter, with the second, fourth, and fifth lines rhyming. His accompanying notes put the poems into a cultural and historical context. Each poems is illustrated with an eighteenth-century Japanese woodcut by an anonymous illustrator.
──"A Hundred Verses from Old Japan: a translation of the hyaku-nin-isshu" by William N. Porter (TUTTLE PUBLISHING, 1979, first edition 1909 by The Clarendon Press, London)
百人一首とは何か、大まかに把握したところで、動画の見方、ブログの読み方などの説明をしましょう。
まず、朗詠音声はプロのもので、左大臣光永さん(http://ogura100.roudokus.com/)による朗詠です。
BGMとして使用させていただいた曲は、雅楽『平調 越天楽』というもので、クラシック名曲サウンドライブラリーさん(http://classical-sound.seesaa.net/)からダウンロードしました。
動画では多くの画像を組み合わせています。
以下の画像をご参照ください。
(クリックすると拡大画像がご覧いただけます。)
まず右上の画像を見てください。
これは動画中の和歌部分の画像です。
各記号の示すものは以下のとおりです。
A…作品番号 number of the verse
B1…作者 poet
B2…作者肖像画 portrait of the poet
『錦百人一首あつま織』勝川春章(1775年)"Nishiki Hyakunin-isshu Azuma Ori" by Shunsho Katsukawa (1775)/国立国会図書館(http://www.ndl.go.jp/)(※#002除く except #002)
B3…作者肖像画 portrait of the poet
『今様百人一首吾妻錦』永楽屋東四郎(江戸時代後期?)"Imayo Hyakuninn-Isshu Azuma Nishiki" by Toshiro Erakuya (late Edo era?)
C…出典 origin
D…部立 category(左下画像参照 see the image of left down)
それぞれの色は平安時代女房装束のかさねの色です。
四季はそれそれの着用時期に合わせたもの、恋・旅・他は通年での着用の色。
E…詞書 description
F…イメージ画像 image picture of the verse
基本的に明記されていないものはすべてPhoto Libraryさん(https://www.photolibrary.jp/)の写真です。
歌に詠まれた事象がメインですが、時刻、時期、場所などは歌の内容とは異なる場合がありますので、あくまで歌の世界を堪能する助けとして見てください。
当然ながら歌の詠まれた当時の写真ではありません。
なかには現代社会が映りこんでいるものもあります。
なお、恋の部立などの象徴的なものに関しては、独断でそれらしいものを選んでいます。
G…歌意イメージ画像 image picture of the meaning of the verse
英語の解説書にあった画像ですが、題名・作者など一切不明です。
18世紀の木版画とありますが、著者のWilliam N. Porter氏も作者はわからなかったようです。
(英語では画像について説明されている歌もありますが、日本語はありません。)
Sentences in [ ] describe about the picture.
右側の画像はブログの表に関してです。
この画像に用いている色は各部分を区別するためのもので、特に意味はありません。
黄色のアルファベットは動画のものと対応しています。
詳細は上記を参照願います。
緑のアルファベットはブログのみです。
H…歌 verse
これなくしては成り立たないので、当然動画にも入れています。
左:漢字かな表記(歴史的仮名遣い) LEFT: Kanji + Hiragana (old writing)
漢字を使っているもの、かなを使っているもの、漢字も異なるもの、かなりのヴァリエーションがありますが、個人的に見て美しいものを選んでいます。
中:ひらがな表記(現代仮名遣い) MIDDLE: Hiragana (modern writing)
右:ローマ字表記 RIGHT: rōmaji
I…歌意 meaning of the verse
日本語:『一冊でわかる百人一首』吉海直人・監修(成美堂出版)のものを採用しています。
English: from "A Hundred Verses from Old Japan: a translation of the hyaku-nin-isshu" by William N. Porter (TUTTLE PUBLISHING, 1979, first edition 1909 by The Clarendon Press, London)
J…解説 explanation of the verse
同上
same as above
K…作者について about the poet
Sorry.
No English.
Some have description by Mr. William N. Porter in J section.
余談ですが、動画の和歌部分上下の千代紙柄、背景の和紙素材はAC Worksさんの提供による素材を使っています。
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