2016年8月5日金曜日

人生に関する素晴らしい名言10選/10 Excellent Life Quotes

《日本語版 Japanese version》


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人生は山あり谷あり、いつも順風満帆とはいかないもの。
だからこそ、明るい未来を迎えたいですよね。
いつも肝に銘じておきたい名言の数々を集めてみました。

写真はプロカメラマン満載のDepositphotosさん(http://depositphotos.com/)、音楽はAC WORKS.CO.,LTD.さんによるクラシック名曲アレンジです。
ショパンの『別れの曲』ですが、メロディーが綺麗で、あまりマイナスのイメージを与えないような気がしたので使ってみました。

さすがと唸らされる、人生を豊かにしてくれる名言を残した人たちの経歴は以下のとおりです。


ブッダ(釈迦) Buddha

紀元前463頃生~紀元前383頃没
仏教の開祖。釈迦牟尼(しゃかむに)ともいう。釈迦は種族名Śākyaの、牟尼は聖者を意味するmuniの音写。釈尊は釈迦牟尼世尊の略称と考えられる。古代北インドの部族、シャカ族(パーリ語ではサーキャ)の国王浄飯王を父とし、摩耶夫人を母とし、姓をゴータマ Gotama(瞿曇〈くどん〉)、名をシッダールタ Siddhārtha(悉達、悉陀)という。生後まもなく母を失い、叔母の手で養育された。16歳で結婚、息子ラーフラをもうけたが、29歳のとき意を決して出家。修業の末、35歳頃ブッダガヤー Buddh Gayāの菩提樹の下で悟りを開き、ブッダ buddha(仏陀)、すなわち覚者(=悟れる者)となった。ワーラーナシの郊外サールナート Sārnāthの鹿野苑で最初の説法を行い、以降80歳で没するまで、ガンジス川流域の中インド各地を周遊して人々を教化した。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

オードリー・ヘップバーン Audrey Hepburn

1929.05.04生~1993.01.20没
アメリカの映画女優。アイルランド系イギリス人貿易商の父とオランダ貴族の母の子として生れる。両親の離婚でオランダに移り、バレエを学びながら、対独レジスタンス運動に参加する。1948年より舞台や映画に出演しはじめ、51年フランスの女流作家コレット(1873~1954)に見出され『ジジ』のブロードウェー公演に主演。これをみた映画監督W.ワイラー(1902~1981)に『ローマの休日』(1953)の主役に抜擢され、映画女優としてデビュー、アカデミー主演女優賞を受賞した。54年に男優のメル・ファーラーと結婚、68年に離婚。翌年、イタリア人医師と再婚したが、80年に再び離婚した。晩年、国連児童基金(ユニセフ)の親善大使として活躍した。おもな作品に『麗しのサブリナ』(54)、『戦争と平和』(56)、『尼僧物語』(59)、『ティファニーで朝食を』(61)、『シャレード』(63)、『マイ・フェア・レディ』(64)、『おしゃれ泥棒』(66)、『暗くなるまで待って』(67)、『華麗なる相続人』(79)、『オールウェイズ』(89)などがある。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

孔子 Confucius

紀元前551生~紀元前479没
中国、春秋時代の学者、思想家。儒教の祖。名は丘。字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。諡(いみな)は至聖文宣王。先祖は公族であったが家はきまめて貧しく、魯に使えて大司寇となったが権力者と衝突し、56歳から十余年間魯を去って諸国を歴遊し、諸侯に道徳的政治の実行を説いたが用いられず、晩年は魯で弟子の教育と著述に専念し、『春秋』やその他儒家の経典を著したと伝えられる。『論語』は彼とその弟子との言行録である。堯、舜、文王、武王、周公旦らを尊崇し、古来の思想を大成し、為政者の特によって民衆を教化する徳治主義を根幹とし、周の遺制たる礼楽制度による周への復古を説いた。その教えは、儒教として中国思想の根幹となり、後世に大きな影響を及ぼした。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ジョージ・バーナード・ショー George Bernard Shaw

1856.07.26生~1950.11.02没
アイルランド出身のイギリスの劇作家。ロンドンに出て小説家を志したが成功せず、音楽批評や劇評を執筆。社会主義に関心をもち、1884年フェビアン協会に入る。イプセン(1828~1906)、ワーグナー(1813~1883)、ニーチャ(1844~1900)らの影響を受ける。喜劇『男やもめの家 Widower's Houses』(1892)によってようやく劇壇に登場。『キャンディダ』(1895)、『人と超人』(1905)、『シーザーとクレオパトラ』(1906)、『メトセラへ帰れ』(1921)、『聖ジョーン』(1923)など作品多数。いずれも思想性と機知に富む喜劇である。その他『イプセン主義真髄 The Quintessence of Ibsenism』(1891、改訂増補1913)、『知識階級婦人のための社会主義および資本主義入門 The Intelligent Woman's Guide to Socialism and Capitalism』(1928)などの著書がある。1925年ノーベル文学賞受賞。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

セーレン・キルケゴール Søren Aabye Kierkegaard

1813.05.05生~1855.11.11没
デンマークの哲学者、神学者。現代実存哲学の創始者。プロテスタンティズムの革新的思想家として知られる。コペンハーゲン大学で神学を学んだ。父の死後(1838)本格的研究を決心、1840年17歳のレギーネ・オルセンと婚約したが、翌年破棄した。41年ベルリンでF.シェリングの講義を聞き、42年帰国、著作活動を始めた。哲学的にはヘーゲル、シェリングの観念論の批判から出発し、「単独者」「主体性」などの概念を中心にして実存論的思索を展開した。神学的には当時のデンマークの教会のあり方を攻撃し、教会的キリスト教の変革を説き、信仰と実存の問題を深く掘下げた。主著
『あれか、これか Enten-Eller』(43)、『おそれとおののき Frgyt og Baeben』(43)、『反復 Gjentagelsen』(43)、『不安の概念 Begrebet Angest』(44)、『人生行路の諸段階 Stadier paa Livets Vei』(45)、『死に至る病 Sygdommen til Døren』(49)。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

アブラハム・リンカーン Abraham Lincoln

1809.02.12生~1865.04.15没
アメリカの政治家。第16代大統領(在任1861~65)。ケンタッキー州の農民の子として生れ、インディアナ州、次いでイリノイ州に移り、ニューセーレムで商店の経営、測量士などさまざまな仕事をしながら独学で法律を勉強、1836年弁護士の資格を取得してスプリングフィールドで開業。34~40年ホイッグ党イリノイ州議会議員となり、46年連邦下院議員に当選、一期(47~49)をつとめて引退。54年カンザス=ネブラスカ法の成立に憤激して政界復帰を決意し、共和党の結成に参加。58年S.ダグラスを敵として連邦上院議員候補となり、敗北はしたが7回にわたって行われた「リンカーン=ダグラス論争」によって全国的に有名となった。60年共和党の大統領候補に指名され、当選。南北対立の激化を前にリンカーンは連邦の維持を政策目的として努力したが、61年4月には南北戦争が開始された。戦況は初め北軍に不利であったが、62年9月戦況が好転しはじめた。同月22日奴隷解放予備宣言を公布、63年1月1日に奴隷解放宣言を発布し、反乱状態にある南部諸州の奴隷解放を宣言。軍事的に後方攪乱をはかるとともに北部、あるいは海外の世論を味方につけ、南部連合側とイギリスの同盟をはばんだ。戦争中の64年大統領選挙で再選。戦争が終りに近づくにつれ、寛大な措置による南部の早期連邦復帰を計画したが、南軍R.リー(1807~1870)将軍降伏(1865.04.09)後、65年4月14日フォード劇場で観劇中、南部人俳優J.ブース(1838~1865)によって撃たれ、翌朝死亡した。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

マルクス・アウレリウス Marcus Aurelius

マルクス・アウレリウス・アントニヌス Marcus Aurelius Antoninus
121.04.26生~180.03.17没
第16代ローマ皇帝(在位:161年 - 180年)。ネルウァ=アントニヌス朝では第五代皇帝。第15代皇帝アントニヌス・ピウスの后妃ファウスティナ・マイヨル(大ファウスティナ)の甥で先帝の外戚にあたり、また大ファウスティナはハドリアヌスとトラヤヌスの傍系血族でもある。
外叔父アントニヌスの皇女で自身の従姉妹であるファウスティナ・ミノル(小ファウスティナ)と結婚して帝位を継承したが、共同皇帝としてハドリアヌスの重臣の子ルキウス・ウェルスが立てられていた。アウレリウスは小ファウスティナとの長女ルキッラを嫁がせて両皇帝の結束を固めたが、169年にウェルスが死んだ事で単独の皇帝となった。
ストア哲学などの学識に長け、良く国を治めた事からネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌスに並ぶ皇帝(五賢帝)と評された。対外政策ではパルティアとの戦争に勝利を収めたが、蛮族への予防戦争として始めたマルコマンニ人、クアディ人、サルマティア人などへの遠征(マルコマンニ戦争)は長期戦となり、国力を疲弊させ、自らも陣中で没した。
軍事よりも学問を好んだ皇帝という姿は、彼の著作である『自省録』への評価を通じて今日も維持されている。これはプラトンの時代から学識者にとって理想とされた「哲人君主」の実現例と見なされているからである。
また、後漢書に見られる安敦とは、彼のことだとされている。
     ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%8C%E3%82%B9

チェーザレ・パヴェーゼ Cesare Pavese

1908.09.09生~1950.08.27没
イタリアの小説家。英米文学に強い関心を示し、すぐれた翻訳を多数残した。反ファシズム活動のため、流刑(1935~36)。難解な叙事・抒情詩集『働き疲れて Lavarare stanca』(36)のなかに、後年の神話的文学観が凝縮されている。ストレーガ賞を受賞(50)した名声のさなかに自殺。主著、小説『故郷 Paesi tuoi』(41)、『青春の絆 Il compagno』(47)、『月とかがり火 La luna e i falò』(50)、小説集『美しい夏 La bella estate』(49)、『鶏の鳴くまえに Prima che il gallo canti』(49)。ほかに、神話論『異神との対話 Dialoghi con Leucò』(47)、日記『生きるという仕事 Il mestiere di vivere』(52)などがある。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ショーロム・アレーカム Sholom Aleichem

ショーレム・アレイヘム(イディッシュ語: שלום־עליכם‎、英語: Sholem Aleichem、ヘブライ語: שלום עליכם‎、1859年3月2日(ユリウス暦2月18日) - 1916年5月13日)は、ウクライナ出身のイディッシュ劇作家、小説家、ジャーナリスト。小説家というよりは劇作家と呼ぶほうが良いとも言われる。

キエフ近郊ペレヤースラウ生まれ。少年時代から執筆活動を行い、オデッサ、キエフ等でジャーナリスト生活に入った。
1889年、キエフで雑誌『ユダヤ民衆文庫』(Folksbibliotek)を創設。これは、自らの伝統の豊かさに源を求めるが、また周辺の文化と歩調を合わせる文学を提唱することによって、輝きを失ったイディッシュ語文学の再興を試みたものである。
はじめコンパクトな短編で読者の心を捉え、次第に連作形式の小説から長編小説へと手を伸ばした。連作の短編としては『牛乳屋テヴィエ(英語版)』(『屋根の上のバイオリン弾き』の項を参照)、長編では『ステンペーニュ(英語版)』、『嵐の中で』、遺作『Mottel the Cantor's Son(英語版)』など。
1905年アメリカに渡り、1906年のアメリカ滞在時にマーク・トゥエインと会う。マーク・トゥエインは、ショーレム・アレイヘムに「私がアメリカのショーレム・アレイヘムです」と自己紹介したという。
のち一時ヨーロッパに戻り、イタリアに住んだが、1914年第一次世界大戦の勃発で再びニューヨークへ移住した(ニューヨークで逝去)。
郷土のシュテットルのユダヤ教徒の生活を描いたユーモラスな作品が多いといわれ、イディッシュ語の口語性をみごとに活かしきっている。「ユダヤ教徒の純情」さを描いて同志愛の必要性を促したともいわれる。
     ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%98%E3%83%A0

ウィリアム・J・クリントン William Jefferson Clinton

1946.08.19生~
アメリカの政治家。第42代大統領(1993~2001)。1968年ジョージタウン大学卒業後、ローズ奨学生として2年間オックスフォード大学に留学、エール大学ロースクールで法学博士、弁護士資格を取得。77年からアーカンソー州検事総長、78年全米最年少(32歳)で同州知事に当選、2期目に落選したが83年に返り咲き、5期つとめた。92年の大統領選挙では民主党候補のなかでも当初不利とされていたが、組織的キャンペーンを背景に予備選挙を勝ち抜き、本選挙でも若さと変革を強調して共和党現職のブッシュ(1924~)大統領に圧勝、12年ぶりに民主党政権を誕生させた。就任後は、国内では財政赤字の削減、健康保険制度の改革、外交面ではロシア支援、国際紛争の解決・防止などを政策の中心課題とした。96年の大統領選挙で共和党のR.ドール候補を敗り、97年から2期目の大統領をつとめた。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

「ショーロム・アレーカム」は“ショーレム・アレイヘム”でしたね。
すみません。
翻訳は一度Google翻訳したものを再度日本語らしく組み立て直したので、人名などはすっかり信用していました。
ネット上の文献をあたって適切な表記を導き出してくれるのかと思っていましたが、間違った認識でした。
反省。

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