《日本語版 Japanese version》
《英語版 English version》
何かに行き詰ったとき、そっと背中を押してくれたり、違う見方を教えてくれたり、そんな著名人の言葉を10集めました。
日本語版の翻訳はcocolo supplie ココロさぷりで行っています。
文章では読んでいるうちに状況が掴めるものですが、名言・格言の類は読んですぐに理解できないと困るので、ちょっと難しいですね。
文自体はそれほど長くも、難解な単語が使われているわけでもないのですが。
今回の動画で使用した写真はDepositphotos(http://depositphotos.com/)のものです。
ストックフォト・サイトとしては老舗といってもいいかもしれません。
音楽はAC WORKS.CO.,LTD.さんのクラシック名曲のオルゴールアレンジです。
では、それぞれの発言者の経歴をみていきましょう。
(H・ジャクソン・ブラウン・ジュニアのみウィキペディア英語版の内容を翻訳しています。)
H・ジャクソン・ブラウン・ジュニア H. Jackson Brown, Jr.
H.ジャクソン・ブラウン, Jr.はアメリカの作家で、ひらめきの本『人生のちょっとした教え Life's Little Instruction Book』でよく知られている。この作品はニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーであった(1991~1994)。続編『人生のちょっとした教え2 Life's Little Instruction Book: Volume 2』も同様、1993年にベストセラーとして名を連ねている。1940年、テネシー州中部に生まれ(今でもそこに住んでいる)。作家になる前は、テネシー州ナッシュビルの広告代理店で制作ディレクターとして働いていた。
『父親の知恵の本 A Father's Book of Wisdom』を出版し、間を空けず『追伸、愛している P.S. I Love You』を発表。父や母から聞かされていた言葉や観察を集めたものであった。後者は旅行に関する有名な名言を含み、マーク・トウェインの発言としてあやまって引用されることがよくある。両者ともとても有名であり、『人生のちょっとした教え Life's Little Instruction Book』に導くが、この本は本来大学進学を希望する彼の息子アダムへの餞別として書かれたものである。「いかに幸せで実り多い人生を送るか」についての511もの覚書で、世界中でベストセラーになった。ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーとして2年以上もランクインし続け、1年以上首位の座を保っていた。『人生のちょっとした教え Life's Little Instruction Book』はハードカバー、ペイパーバックの形態どちらもで同時に1位を獲得した最初の本である。『生き、学び、前進する Live and Learn and Pass It On』もまたニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーになった。『生き、学び、前進する Live and Learn and Pass It On』は彼の妻、ローズマリー・C・ブラウンとの共著で、彼女もまた『ローズマリー・ブラウンのキッチンでの教え Rosemary Brown's Big Kitchen Instruction Book』を始めとする作家である。
ブラウンの著作は35ヶ国語に翻訳されており、大量のカレンダー、ポスター、服飾小物、日記帳、グリーティングカード、オーディオカセット、スクリーンセーバー、はたまたフォーチュンクッキーなどに用いられている。
──ウィキペディア英語版(https://en.wikipedia.org/wiki/H._Jackson_Brown,_Jr.)
アッシジのフランチェスコ Francis of Assisi
1181(1182?)生~1226.10.03没フランシスコ修道会(清貧と説教を中核とするカトリック托鉢修道会)の創立者。イタリアの守護聖人(祝日10月4日)。フランシスコとも呼ばれる。イタリア名 Giovanni Francesco Bernardone。ラテン語、フランス語、吟遊詩人の文学を学び、軍人生活に入ったが、スポレトで幻視を得て帰郷し、世俗的財と家族の絆を捨て清貧の生活に入った。サン・ダミアノ聖堂を再建し、キリストのことばを聞いて説教を開始。弟子が集まると単純な生活戒律をつくり、1209年教皇の許可を得た。1212年アッシジのクララ(1194~1253)を中心とする女弟子を定住させて戒律を与え、クララ会を創始。1221年フランシスコ会第三会を始めた。会は国外にも休息に発展。1217年エジプトに渡ってスルタンに説教し、感服させて聖地巡礼を許されたという。帰国して新しい戒律を編み、1223年教皇の許可を得た。1224年夏ラベルナ山において聖痕を受け、盲目となって生涯を終えた。ジョット・ディ・ポンドーネら多くの画家によって描かれた。アッシジにフランチェスコ博物館がある。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
ヘレン・ケラー Helen Adams Keller
1880.06.27生~1968.06.01没アメリカの女性教育家。生後19ヶ月でかかった重病のため視力と聴力を失い、ほどなく唖者になった。6歳のとき両親がケラーの教育についてアレグザンダー・G.ベルに相談したのが機縁でアン・サリバンが教育にあたることになった。サリバン自身も当時は視力を幾分回復はしていたが、一時期失明状態を経験しており、ボストンのパーキンズ盲学校の卒業生で、当時20歳であった。彼女は1887年3月に教育を開始し、1ヵ月たたないうちにケラーに言葉を教えることができた。サリバンのたゆまぬ指導と、ボストンのホーレス・マン聾学校、ニューヨークのライト・ヒューメイソン聾学校での教育の成果により、ケラーは読み書き話すことのほか、普通の学科にも習熟した。1900年にはラドクリフ・カレッジに入学、1904年優等で卒業した。サリバンの教師としての能力はケラーの才能に劣らぬ驚くべきものであった。彼女は1936年に死ぬまで献身的な伴侶として尽した。ケラーはその後国内国外で講演旅行を重ねるなど盲聾唖者の福祉のために尽力し、1937年、1948年、1955年に来日した。『私の半生記 The Story of My Life』(1902)、『暗黒の中から Out of the Dark』(1913)、『私の宗教 My Religion』(1927)、『入信のすすめ Let Us Have Faith』(1940)など多くの著作がある。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
ジミー・ディーン Jimmy Dean
1928.08.10生~2010.06.13没アメリカのカントリー・ミュージック歌手、俳優、実業家。
テキサス州プレインビュー生まれ。母親からピアノを習い、ハーモニカやアコーディオンも得意になる。空軍在籍中、ナイトクラブで軍人グループの代役でアコーディオンを演奏したのがきっかけで、そのままグループの一員となる。除隊後、放送局で働きながら音楽活動をし、自分の番組を持つようになる。1961年、『ビッグ・バッド・ジョン』でビルボード誌で全米1位を5週間記録する。1964年にはABCテレビで『ジミー・ディーン・ショー』を持ち、1971年には『007 ダイヤモンドは永遠に』で映画デビューする。
晩年は、レストランのチェーン店やソーセージを製造するジミー・ディーン・ミート・カンパニーの経営等に力を注いだ。2010年6月13日、バージニア州の自宅で死去。81歳没
──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3)
ロレッタ・ヤング Loretta Young
本名:Gretchen Young1913.01.06生~2000.08.12没
アメリカ合衆国ユタ州ソルトレイクシティ出身の女優。3歳のときに家族でハリウッドに移り住む。
両親が離婚したため、一家はロサンゼルスで下宿屋を開業。家計を助けるために姉のポリー・アン、サリーと共に子役として映画に出演。マーヴィン・ルロイ監督に声をかけられ、1928年に本格的に映画デビューした。
1930年、17歳のときに26歳の俳優グラント・ウィザーズと駆け落ちするが、翌年に関係を解消。1934年にはクラーク・ゲーブルと共演をきっかけに関係を持ち、翌年に妊娠をしたが世間にはそれを隠し通したまま極秘に娘を出産。世間には養女をとったとしていたが、晩年に書かれた自伝でゲーブルとの間にできた子であることを告白している。当時ゲーブルには妻がおり、またカトリック教徒として育てられたヤングは中絶することを拒んだという。1940年にプロデューサーのトム・リュイスと結婚するが、これもまたのちに離婚。
1947年の『ミネソタの娘』でアカデミー主演女優賞を受賞。それまでは賞とは一切無縁で、この時もロザリンド・ラッセルが本命視されていたが、予想では最下位だったヤングが受賞するという結果となった。受賞スピーチでは感極まって「やっとのことで…」と言ったまましばし絶句した。女優20周年目での出来事だった。
その後テレビにも進出し、1953年から1961年まで自分のテレビ番組『ロレッタ・ヤング・ショー』で活躍した。ちなみにこの番組は日本ではNHK総合テレビジョンで1960年から1962年にかけて放送された。
──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%B0)
ヴィンス・ロンバルディ Vince Lombardi
(ヴィンセント・トマス・ロンバルディ Vincent Thomas Lombardi)1913.06.11生~1970.09.03没
アメリカンフットボールのコーチ。1959年から1967年の9シーズンに渡りNFL グリーンベイ・パッカーズのヘッドコーチを、1969年シーズンにワシントン・レッドスキンズのヘッドコーチを務めた。ヘッドコーチとして通算で105勝35敗6分け、勝率.750(NFLの方針で引き分けは無視)という成績を収め、負け越したことはなかった。彼がパッカーズを率いたポストシーズンでの通算成績は9勝1敗で、その間に5度のリーグチャンピオンシップ優勝を成し遂げ、そして第1回および第2回スーパーボウルを連覇した。ロンバルディの人気は当時リチャード・ニクソンが1968年の大統領選挙においてロンバルディを副大統領候補にしようと思ったといわれたほど高かった。
──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3)
アンネ・フランク Anne Frank
1929.06.12生~1945.03?没ユダヤ人で『アンネの日記』の作者。1933年ナチスの迫害を逃れ一家でオランダに亡命。ドイツ軍がオランダを侵略した1942~44年、オランダ人の好意でアムステルダムの屋根裏にひそんでいたが密告によって1944年8月4日ゲシュタポに逮捕され、ベルゲンの強制収容所で終戦の直前に姉と同じチフスで亡くなった。隠れ家での生活を多感で繊細な少女の目で書き綴った日記が戦後父親の手で発見され、1952年アメリカで出版されると人々に感銘を与え、30ヵ国語以上に翻訳されベストセラーになった。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
オードリー・ヘップバーン Audrey Hepburn
1929.05.04生~1993.01.20没アメリカの映画女優。アイルランド系イギリス人貿易商の父とオランダ貴族の母の子として生れる。両親の離婚でオランダに移り、バレエを学びながら、対独レジスタンス運動に参加する。1948年より舞台や映画に出演しはじめ、51年フランスの女流作家コレット(1873~1954)に見出され『ジジ』のブロードウェー公演に主演。これをみた映画監督W.ワイラー(1902~1981)に『ローマの休日』(1953)の主役に抜擢され、映画女優としてデビュー、アカデミー主演女優賞を受賞した。54年に男優のメル・ファーラーと結婚、68年に離婚。翌年、イタリア人医師と再婚したが、80年に再び離婚した。晩年、国連児童基金(ユニセフ)の親善大使として活躍した。おもな作品に『麗しのサブリナ』(54)、『戦争と平和』(56)、『尼僧物語』(59)、『ティファニーで朝食を』(61)、『シャレード』(63)、『マイ・フェア・レディ』(64)、『おしゃれ泥棒』(66)、『暗くなるまで待って』(67)、『華麗なる相続人』(79)、『オールウェイズ』(89)などがある。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
マヤ・アンジェロウ Maya Angelou
1928.04.04生~2014.05.28没アメリカ合衆国の活動家、詩人、歌手、女優である。マヤ・アンジェルーと表記されることもある。本名は、マーガリート・アニー・ジョンソン(Marguerite Annie Johnson)。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアとともに公民権運動に参加。1993年、ビル・クリントンのアメリカ合衆国大統領就任式にて自作の詩を朗読した。2011年、大統領自由勲章を受章。2014年5月28日、86歳で死去。代表作は、自伝の『歌え、翔べない鳥たちよ』。
──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AD%E3%82%A6)
ジョーゼフ・キャンベル Joseph Campbell
1904.03.26生~1987.10.30没アメリカ合衆国の神話学者。ジョゼフ・キャンベルと表記されることもある。比較神話学や比較宗教学で知られる。
彼の作品は広大で、人間の経験に基づく多面的なものである。彼の人生観は、しばしば「至上の幸福に従え」(Follow your bliss)という一文に要約される。
ジョージ・ルーカスがキャンベルの神話論を『スター・ウォーズ』に採り入れたというエピソードもよく知られている。
──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB)
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