"cocolo supplie" wants your original photos, musics, and/or poems for our healing videos.
The credit will be shown in the video, in the description of the video, in the article of our blog.
This means that the world knows your talent.
(Now we have viewers not only in Japan, but US, Canada, Germany, Thailand, Holland, Brazil and so on.)
Of course your works suck as photos, musics and/or poems are wonderful itself without doubt when we enjoy them alone.
The combination of different materials may bring a new impression.
Why don't you and we collaborate?
All the materials should be healing for many people, not unpleasant to most people.
For example, nude or sexal expressions; slander, abuse, or crime, and related those things; negativeness; or imaginating those.
We would say no to them.
"cocolo supplie" never buy your works.
We humbly ask you to provide them with goodwill, no give-and-take money at all.
We may modify to the materials like; aspect ratio or cropping for photos, cutting or repeating or changing tempo for musics, and deviding into mutiple videos for poems.
It would be so helpful that you put the credit where both 4:3 and 16:9 aspect ratio will do.
In case a photo and the credit don't match when we use several photographers' pictures.
We would like to have such as scenery, bokeh, abstract, animal...
Your personal snap shots are not preferable.
We don't care about the length of music, but we may cut when it doesn't fit like we mentioned before.
Most of our videos are 5 min. or so, we prefer that length.
Short ones should be played seamlessly when they are played repeatedly.
Not with vocals, should be instrumental.
You should devide into lyrics (text) and acommpanied music (audio file).
We show singing ones as another versions.
We prefer slow-medium tempo, melodious, non fast-beat ones like lullabies.
No good for currently copyright-valid musics even covers.
Most of classical music pieces are OK to use under copyright, must be arranged or self-played ones.
Poem should be not endlessly long without periods and commas.
The poems and lyrics of the songs are shown on the blog both English and Japanese (translated).
You can give us poems/lyrics in other languages but you should know we are not multilingual, no skill for translation directly unless you give us English ones.
Readings-aloud of literature incruding classics are also welcome.
You should choose ones over 50 years after the author's death, make sure non-valid copyright.
Quotes are probably all right if you clear the authors and where you pick from (like the title of the book).
We will make sure later.
Feel free to contact us if you have further questions using the form on the right column of the page.
Do you agree upon all above?
Then send us a message attached them as compressed files like .zip or .rar.
Or you can use like Google Cloud, then you let us know the downlod url and password.
We will be pleased if you give us useful information on royalty-free materials, even not your own works.
You have to send us a message first using the contact form.
Then we will write you back.
"Name," "email address" and "message" from above.
Don't forget to put your right email address, as we cannot reach you.
We need you to provide great videos to the world!!
Hope you and we can make wonderful partners.
Thank you very much for your coorperation in advance.
1934.10.18生。福音主義のキリスト教牧師、作家、教育家、ラジオ宣教師。テキサス州プラノに本部を置く「生命の本質 Insight for Living」を創設し、同名のラジオ番組を、世界中の2000を越える放送局で15ヶ国語で放送している。現在、テキサス州フリスコのストーンブリア・コミュニティチャーチで主任牧師をしている。 ──ウィキペディア英語版(https://en.wikipedia.org/wiki/Chuck_Swindoll)
1883.02.18生~1957.10.26没 ギリシアの詩人、小説家、劇作家。幅広い教養と偏見のない目をもって人間の自由とは何かを生涯追及した。ホメロスに題材をかりて現代人の苦悩を描いた24巻3万3333行の長編叙事詩『オデュッセイア Odysseia』(1938)が代表作。小説ではクレタ的人間像によって大きな反響を呼んだ『その男ゾルバ Vios kai politeia tou Alexe Zorba』(47)およびギリシア人難民の辛苦と立場を異にする同胞同士の醜い葛藤をあばきだした『再び十字架にかけられるキリスト O Christos xanastauronetai』(55)、『神の貧民―アッシジの聖フランシスコ O ftochoulis tou Theou』(56)が最も有名。戯曲はキリスト、ユリアヌス帝など歴史上の偉人の苦闘を扱ったものが多い。また『グレコへの報告 Anofora ston Greko』(61)は断片的な自伝もしくは遺作といった性質をもつ。そのほか、古典の翻訳や旅行記も多数。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』
Walter Elias Disney 1901.12.05生~1966.12.15没 アメリカ合衆国シカゴで生を受けたアニメーション映画制作者。1928年『蒸気船ウィリー(Steamboat Willie)』でアニメーション映画初のトーキー化に成功し、ミッキーマウス、ドナルドダックの生みの親として世界的に人気を博す。1937年初のカラー長編アニメーション映画『白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs)』を制作、以降『ピノキオ(Pinocchio)』(1940)、『ファンタジア(Fantasia)』(1940)、『ダンボ(Dumbo)』(1941)、『バンビ(Bambi)』(1942)、『不思議の国のアリス(Alice in Wonderland)』(1951)、『眠れる森の美女(Sleeping Beauty)』(1959)などを発表。まんが映画のほかに『メリー・ポピンズ(Mary Poppins)』(1964)などに代表される家族向け娯楽映画、さらに記録映画も制作。1955年には巨大な遊園施設ディズニーランドをカリフォルニア州アナハイムに開設した。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』
セオドア・ルーズベルト Theodore Roosevelt
1858.10.27生~1919.01.06没 アメリカの政治家。第26代大統領(在任1901~09)。1881~84年ニューヨーク州議会議員。84~86年ダコタ准州で農場を経営、86年ニューヨーク市長選挙に出馬したが、落選。89~95年連邦公務員制度委員会委員。95~97年ニューヨーク市公安委員会委員長。97~98年海軍次官補。98年アメリカ=スペイン戦争が勃発すると義勇軍「ラフ・ライダーズ」を組織してキューバに転戦、勇名をはせた。99~1900年ニューヨーク州知事。01年W.マッキンレー(1843~1901)大統領のものとで副大統領。同年9月マッキンレーが暗殺されたため大統領に就任。04年再選。その間カリブ海に進出し、パナマ独立を達成させ、03年新政府とヘー=ビュノーバリヤ条約を結んで、パナマ運河地帯を獲得、運河建設事業に着手した。05年には日露の和平会議で仲介の労をとり、06年ノーベル平和賞を受けた。また国内では反トラスト法によるトラスト規制、資源保護に尽した。12年の大統領選挙に革新党を組織して立候補したが、民主党候補T.W.ウィルソン(1856~1924)に敗れた。第1次世界大戦では対外強硬論を主張、みずから義勇軍を率いて参戦しようとしたが果たせなかった。主著『ニュー・ナジョナリズム New Nationalism』(10)、『アメリカと第1次世界大戦 America and the World War』(15)など多数。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』
本名:Gretchen Young 1913.01.06生~2000.08.12没 アメリカ合衆国ユタ州ソルトレイクシティ出身の女優。3歳のときに家族でハリウッドに移り住む。 両親が離婚したため、一家はロサンゼルスで下宿屋を開業。家計を助けるために姉のポリー・アン、サリーと共に子役として映画に出演。マーヴィン・ルロイ監督に声をかけられ、1928年に本格的に映画デビューした。 1930年、17歳のときに26歳の俳優グラント・ウィザーズと駆け落ちするが、翌年に関係を解消。1934年にはクラーク・ゲーブルと共演をきっかけに関係を持ち、翌年に妊娠をしたが世間にはそれを隠し通したまま極秘に娘を出産。世間には養女をとったとしていたが、晩年に書かれた自伝でゲーブルとの間にできた子であることを告白している。当時ゲーブルには妻がおり、またカトリック教徒として育てられたヤングは中絶することを拒んだという。1940年にプロデューサーのトム・リュイスと結婚するが、これもまたのちに離婚。 1947年の『ミネソタの娘』でアカデミー主演女優賞を受賞。それまでは賞とは一切無縁で、この時もロザリンド・ラッセルが本命視されていたが、予想では最下位だったヤングが受賞するという結果となった。受賞スピーチでは感極まって「やっとのことで…」と言ったまましばし絶句した。女優20周年目での出来事だった。 その後テレビにも進出し、1953年から1961年まで自分のテレビ番組『ロレッタ・ヤング・ショー』で活躍した。ちなみにこの番組は日本ではNHK総合テレビジョンで1960年から1962年にかけて放送された。 ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%B0)
H・ジャクソン・ブラウン・ジュニア H. Jackson Brown, Jr.
H.ジャクソン・ブラウン, Jr.はアメリカの作家で、ひらめきの本『人生のちょっとした教え Life's Little Instruction Book』でよく知られている。この作品はニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーであった(1991~1994)。続編『人生のちょっとした教え2 Life's Little Instruction Book: Volume 2』も同様、1993年にベストセラーとして名を連ねている。 1940年、テネシー州中部に生まれ(今でもそこに住んでいる)。作家になる前は、テネシー州ナッシュビルの広告代理店で制作ディレクターとして働いていた。 『父親の知恵の本 A Father's Book of Wisdom』を出版し、間を空けず『追伸、愛している P.S. I Love You』を発表。父や母から聞かされていた言葉や観察を集めたものであった。後者は旅行に関する有名な名言を含み、マーク・トウェインの発言としてあやまって引用されることがよくある。両者ともとても有名であり、『人生のちょっとした教え Life's Little Instruction Book』に導くが、この本は本来大学進学を希望する彼の息子アダムへの餞別として書かれたものである。「いかに幸せで実り多い人生を送るか」についての511もの覚書で、世界中でベストセラーになった。ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーとして2年以上もランクインし続け、1年以上首位の座を保っていた。『人生のちょっとした教え Life's Little Instruction Book』はハードカバー、ペイパーバックの形態どちらもで同時に1位を獲得した最初の本である。『生き、学び、前進する Live and Learn and Pass It On』もまたニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーになった。『生き、学び、前進する Live and Learn and Pass It On』は彼の妻、ローズマリー・C・ブラウンとの共著で、彼女もまた『ローズマリー・ブラウンのキッチンでの教え Rosemary Brown's Big Kitchen Instruction Book』を始めとする作家である。 ブラウンの著作は35ヶ国語に翻訳されており、大量のカレンダー、ポスター、服飾小物、日記帳、グリーティングカード、オーディオカセット、スクリーンセーバー、はたまたフォーチュンクッキーなどに用いられている。 ──ウィキペディア英語版(https://en.wikipedia.org/wiki/H._Jackson_Brown,_Jr.)
1900.03.23生~1980.3.18没 ドイツ生れのアメリカの精神分析学者、社会心理学者。新フロイト派の一人。精神分析の社会学派といわれ、政治的、宗教的、経済的条件で個人の「社会的性格」が形成されると主張し、社会の健全な発展のため、精神分析法を導入することを提唱した。ナチスに追われ、フランスを経て1933年にアメリカに渡り、シカゴ精神分析研究所などの研究員をつとめ、40年アメリカに帰化。49年メキシコに移住し、以降アメリカと両国で活躍していた。51年、メキシコ国立大学教授。主著『自由からの逃走 Escape from Freedom』(1941)。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』
マザー・テレサ Mother Teresa
1910.08.27生~1997.09.05没 アルバニア系のカトリック修道女。フルネームBlessed Mother Teresa of Calcutta。本名Agnes Gonxha Bojaxhiu。マザーテレサ、カルカッタのテレサ、Blessed Teresa of Calcuttaとも呼ばれる。インドのカルカッタの最貧民や遺棄されて死に瀕した病人、老人、子供のため献身的な活動を行なった。現代における最も徹底した愛の使徒として知られる。1928年インドに渡り、ロレット会の修道女としてカトリック系女子高校で教えたが、1946年修道会を出てスラムで働く。1950年厳しい清貧を守りつつ悲惨な境遇の人々に奉仕する「神の愛の宣教者会 Order of the Missinaries of Charity」を設立、1965年からは活動をインド国外にも広げ、1978年には同系の男子修道会が東京都台東区に支部を置いた。1952年「死を待つ人の家 Place of the Pure of Heart」、ハンセン病患者のための「平和の村 Town of Peace」設立。1971年にヨハネス23世教皇平和賞、1979年にノーベル平和賞受賞。1981、1982、1984年日本訪問。世界の宗教者平和会議WCRPなどで講演し、生命の尊厳とそのための施設づくりを提唱した。2003年、異例の早さで福者となった。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』
※2001年から地名の“カルカッタ”は“コルカタ”に改められています。
1854.10.16生~1900.11.30没 イギリスの詩人、小説家、劇作家。アイルランド出身。オックスフォード大学に学び、ロンドンの社交界に出て、機知と耽美的生活態度によって注目を浴びた。唯一の小説『ドリアン・グレーの肖像 The Picture of Dorian Gray』(1891)や、『ウィンダミア卿夫人の扇 Lady Windermere's Fan』(92)、『サロメ Salomé』(93刊)、『まじめが肝心 The Importance of Being Earnest』(95)などの戯曲、また、詩や批評など多彩な文筆活動で名声を得たが、1895年男色事件のために入獄し『深淵より De Profundis』(1905、完本62)を執筆。出獄後はフランスへ移り、貧窮のうちに死んだ。いわゆる「世紀末文学」の中心人物。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』
1856.07.26生~1950.11.02没 アイルランド出身のイギリスの劇作家。ロンドンに出て小説家を志したが成功せず、音楽批評や劇評を執筆。社会主義に関心をもち、1884年フェビアン協会に入る。イプセン(1828~1906)、ワーグナー(1813~1883)、ニーチャ(1844~1900)らの影響を受ける。喜劇『男やもめの家 Widower's Houses』(1892)によってようやく劇壇に登場。『キャンディダ』(1895)、『人と超人』(1905)、『シーザーとクレオパトラ』(1906)、『メトセラへ帰れ』(1921)、『聖ジョーン』(1923)など作品多数。いずれも思想性と機知に富む喜劇である。その他『イプセン主義真髄 The Quintessence of Ibsenism』(1891、改訂増補1913)、『知識階級婦人のための社会主義および資本主義入門 The Intelligent Woman's Guide to Socialism and Capitalism』(1928)などの著書がある。1925年ノーベル文学賞受賞。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』
セーレン・キルケゴール Søren Aabye Kierkegaard
1813.05.05生~1855.11.11没 デンマークの哲学者、神学者。現代実存哲学の創始者。プロテスタンティズムの革新的思想家として知られる。コペンハーゲン大学で神学を学んだ。父の死後(1838)本格的研究を決心、1840年17歳のレギーネ・オルセンと婚約したが、翌年破棄した。41年ベルリンでF.シェリングの講義を聞き、42年帰国、著作活動を始めた。哲学的にはヘーゲル、シェリングの観念論の批判から出発し、「単独者」「主体性」などの概念を中心にして実存論的思索を展開した。神学的には当時のデンマークの教会のあり方を攻撃し、教会的キリスト教の変革を説き、信仰と実存の問題を深く掘下げた。主著 『あれか、これか Enten-Eller』(43)、『おそれとおののき Frgyt og Baeben』(43)、『反復 Gjentagelsen』(43)、『不安の概念 Begrebet Angest』(44)、『人生行路の諸段階 Stadier paa Livets Vei』(45)、『死に至る病 Sygdommen til Døren』(49)。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』
1908.09.09生~1950.08.27没 イタリアの小説家。英米文学に強い関心を示し、すぐれた翻訳を多数残した。反ファシズム活動のため、流刑(1935~36)。難解な叙事・抒情詩集『働き疲れて Lavarare stanca』(36)のなかに、後年の神話的文学観が凝縮されている。ストレーガ賞を受賞(50)した名声のさなかに自殺。主著、小説『故郷 Paesi tuoi』(41)、『青春の絆 Il compagno』(47)、『月とかがり火 La luna e i falò』(50)、小説集『美しい夏 La bella estate』(49)、『鶏の鳴くまえに Prima che il gallo canti』(49)。ほかに、神話論『異神との対話 Dialoghi con Leucò』(47)、日記『生きるという仕事 Il mestiere di vivere』(52)などがある。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』
ショーロム・アレーカム Sholom Aleichem
ショーレム・アレイヘム(イディッシュ語: שלום־עליכם、英語: Sholem Aleichem、ヘブライ語: שלום עליכם、1859年3月2日(ユリウス暦2月18日) - 1916年5月13日)は、ウクライナ出身のイディッシュ劇作家、小説家、ジャーナリスト。小説家というよりは劇作家と呼ぶほうが良いとも言われる。 キエフ近郊ペレヤースラウ生まれ。少年時代から執筆活動を行い、オデッサ、キエフ等でジャーナリスト生活に入った。 1889年、キエフで雑誌『ユダヤ民衆文庫』(Folksbibliotek)を創設。これは、自らの伝統の豊かさに源を求めるが、また周辺の文化と歩調を合わせる文学を提唱することによって、輝きを失ったイディッシュ語文学の再興を試みたものである。 はじめコンパクトな短編で読者の心を捉え、次第に連作形式の小説から長編小説へと手を伸ばした。連作の短編としては『牛乳屋テヴィエ(英語版)』(『屋根の上のバイオリン弾き』の項を参照)、長編では『ステンペーニュ(英語版)』、『嵐の中で』、遺作『Mottel the Cantor's Son(英語版)』など。 1905年アメリカに渡り、1906年のアメリカ滞在時にマーク・トゥエインと会う。マーク・トゥエインは、ショーレム・アレイヘムに「私がアメリカのショーレム・アレイヘムです」と自己紹介したという。 のち一時ヨーロッパに戻り、イタリアに住んだが、1914年第一次世界大戦の勃発で再びニューヨークへ移住した(ニューヨークで逝去)。 郷土のシュテットルのユダヤ教徒の生活を描いたユーモラスな作品が多いといわれ、イディッシュ語の口語性をみごとに活かしきっている。「ユダヤ教徒の純情」さを描いて同志愛の必要性を促したともいわれる。 ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%98%E3%83%A0)
H.ジャクソン・ブラウン, Jr.はアメリカの作家で、ひらめきの本『人生のちょっとした教え Life's Little Instruction Book』でよく知られている。この作品はニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーであった(1991~1994)。続編『人生のちょっとした教え2 Life's Little Instruction Book: Volume 2』も同様、1993年にベストセラーとして名を連ねている。 1940年、テネシー州中部に生まれ(今でもそこに住んでいる)。作家になる前は、テネシー州ナッシュビルの広告代理店で制作ディレクターとして働いていた。 『父親の知恵の本 A Father's Book of Wisdom』を出版し、間を空けず『追伸、愛している P.S. I Love You』を発表。父や母から聞かされていた言葉や観察を集めたものであった。後者は旅行に関する有名な名言を含み、マーク・トウェインの発言としてあやまって引用されることがよくある。両者ともとても有名であり、『人生のちょっとした教え Life's Little Instruction Book』に導くが、この本は本来大学進学を希望する彼の息子アダムへの餞別として書かれたものである。「いかに幸せで実り多い人生を送るか」についての511もの覚書で、世界中でベストセラーになった。ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーとして2年以上もランクインし続け、1年以上首位の座を保っていた。『人生のちょっとした教え Life's Little Instruction Book』はハードカバー、ペイパーバックの形態どちらもで同時に1位を獲得した最初の本である。『生き、学び、前進する Live and Learn and Pass It On』もまたニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーになった。『生き、学び、前進する Live and Learn and Pass It On』は彼の妻、ローズマリー・C・ブラウンとの共著で、彼女もまた『ローズマリー・ブラウンのキッチンでの教え Rosemary Brown's Big Kitchen Instruction Book』を始めとする作家である。 ブラウンの著作は35ヶ国語に翻訳されており、大量のカレンダー、ポスター、服飾小物、日記帳、グリーティングカード、オーディオカセット、スクリーンセーバー、はたまたフォーチュンクッキーなどに用いられている。 ──ウィキペディア英語版(https://en.wikipedia.org/wiki/H._Jackson_Brown,_Jr.)
アッシジのフランチェスコ Francis of Assisi
1181(1182?)生~1226.10.03没 フランシスコ修道会(清貧と説教を中核とするカトリック托鉢修道会)の創立者。イタリアの守護聖人(祝日10月4日)。フランシスコとも呼ばれる。イタリア名 Giovanni Francesco Bernardone。ラテン語、フランス語、吟遊詩人の文学を学び、軍人生活に入ったが、スポレトで幻視を得て帰郷し、世俗的財と家族の絆を捨て清貧の生活に入った。サン・ダミアノ聖堂を再建し、キリストのことばを聞いて説教を開始。弟子が集まると単純な生活戒律をつくり、1209年教皇の許可を得た。1212年アッシジのクララ(1194~1253)を中心とする女弟子を定住させて戒律を与え、クララ会を創始。1221年フランシスコ会第三会を始めた。会は国外にも休息に発展。1217年エジプトに渡ってスルタンに説教し、感服させて聖地巡礼を許されたという。帰国して新しい戒律を編み、1223年教皇の許可を得た。1224年夏ラベルナ山において聖痕を受け、盲目となって生涯を終えた。ジョット・ディ・ポンドーネら多くの画家によって描かれた。アッシジにフランチェスコ博物館がある。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』
ヘレン・ケラー Helen Adams Keller
1880.06.27生~1968.06.01没 アメリカの女性教育家。生後19ヶ月でかかった重病のため視力と聴力を失い、ほどなく唖者になった。6歳のとき両親がケラーの教育についてアレグザンダー・G.ベルに相談したのが機縁でアン・サリバンが教育にあたることになった。サリバン自身も当時は視力を幾分回復はしていたが、一時期失明状態を経験しており、ボストンのパーキンズ盲学校の卒業生で、当時20歳であった。彼女は1887年3月に教育を開始し、1ヵ月たたないうちにケラーに言葉を教えることができた。サリバンのたゆまぬ指導と、ボストンのホーレス・マン聾学校、ニューヨークのライト・ヒューメイソン聾学校での教育の成果により、ケラーは読み書き話すことのほか、普通の学科にも習熟した。1900年にはラドクリフ・カレッジに入学、1904年優等で卒業した。サリバンの教師としての能力はケラーの才能に劣らぬ驚くべきものであった。彼女は1936年に死ぬまで献身的な伴侶として尽した。ケラーはその後国内国外で講演旅行を重ねるなど盲聾唖者の福祉のために尽力し、1937年、1948年、1955年に来日した。『私の半生記 The Story of My Life』(1902)、『暗黒の中から Out of the Dark』(1913)、『私の宗教 My Religion』(1927)、『入信のすすめ Let Us Have Faith』(1940)など多くの著作がある。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』
本名:Gretchen Young 1913.01.06生~2000.08.12没 アメリカ合衆国ユタ州ソルトレイクシティ出身の女優。3歳のときに家族でハリウッドに移り住む。 両親が離婚したため、一家はロサンゼルスで下宿屋を開業。家計を助けるために姉のポリー・アン、サリーと共に子役として映画に出演。マーヴィン・ルロイ監督に声をかけられ、1928年に本格的に映画デビューした。 1930年、17歳のときに26歳の俳優グラント・ウィザーズと駆け落ちするが、翌年に関係を解消。1934年にはクラーク・ゲーブルと共演をきっかけに関係を持ち、翌年に妊娠をしたが世間にはそれを隠し通したまま極秘に娘を出産。世間には養女をとったとしていたが、晩年に書かれた自伝でゲーブルとの間にできた子であることを告白している。当時ゲーブルには妻がおり、またカトリック教徒として育てられたヤングは中絶することを拒んだという。1940年にプロデューサーのトム・リュイスと結婚するが、これもまたのちに離婚。 1947年の『ミネソタの娘』でアカデミー主演女優賞を受賞。それまでは賞とは一切無縁で、この時もロザリンド・ラッセルが本命視されていたが、予想では最下位だったヤングが受賞するという結果となった。受賞スピーチでは感極まって「やっとのことで…」と言ったまましばし絶句した。女優20周年目での出来事だった。 その後テレビにも進出し、1953年から1961年まで自分のテレビ番組『ロレッタ・ヤング・ショー』で活躍した。ちなみにこの番組は日本ではNHK総合テレビジョンで1960年から1962年にかけて放送された。 ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%B0)
ヴィンス・ロンバルディ Vince Lombardi
(ヴィンセント・トマス・ロンバルディ Vincent Thomas Lombardi) 1913.06.11生~1970.09.03没 アメリカンフットボールのコーチ。1959年から1967年の9シーズンに渡りNFL グリーンベイ・パッカーズのヘッドコーチを、1969年シーズンにワシントン・レッドスキンズのヘッドコーチを務めた。ヘッドコーチとして通算で105勝35敗6分け、勝率.750(NFLの方針で引き分けは無視)という成績を収め、負け越したことはなかった。彼がパッカーズを率いたポストシーズンでの通算成績は9勝1敗で、その間に5度のリーグチャンピオンシップ優勝を成し遂げ、そして第1回および第2回スーパーボウルを連覇した。ロンバルディの人気は当時リチャード・ニクソンが1968年の大統領選挙においてロンバルディを副大統領候補にしようと思ったといわれたほど高かった。 ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3)