2016年8月6日土曜日

愛についての優れた名言10選/10 Excellent Love Quotes

《日本語版 Japanese version》


《英語版 English version》


写真はwww.alltollz.orgのもので、デザイン素材を扱うサイト経由でダウンロードした65点の花の写真セットの中から選びました。
(※リンクしていなのは、サイトが閉鎖されてしまったと思われるためです。
ダウンロードしてからそんなに経っていないんですけどねぇ。)

音楽は再度AC WORKS.CO.,LTD.さんによるクラシック名曲アレンジで、今回はシューマンの『子供の情景』から『トロイメライ』です。
ドイツ語のトラウム Traum(=夢、憧れ)から派出した言葉で、「夢み心地」といった意味だそうです。
メロディから選んだ曲でしたが、なぜか偶然にも内容と重なりました。

日本語への翻訳はcocolo supplie ココロさぷりで行っています。

では、心に響く名言を残してくれた人たちの経歴を見ることにしましょうか。



ロレッタ・ヤング Loretta Young

本名:Gretchen Young
1913.01.06生~2000.08.12没
アメリカ合衆国ユタ州ソルトレイクシティ出身の女優。3歳のときに家族でハリウッドに移り住む。

両親が離婚したため、一家はロサンゼルスで下宿屋を開業。家計を助けるために姉のポリー・アン、サリーと共に子役として映画に出演。マーヴィン・ルロイ監督に声をかけられ、1928年に本格的に映画デビューした。
1930年、17歳のときに26歳の俳優グラント・ウィザーズと駆け落ちするが、翌年に関係を解消。1934年にはクラーク・ゲーブルと共演をきっかけに関係を持ち、翌年に妊娠をしたが世間にはそれを隠し通したまま極秘に娘を出産。世間には養女をとったとしていたが、晩年に書かれた自伝でゲーブルとの間にできた子であることを告白している。当時ゲーブルには妻がおり、またカトリック教徒として育てられたヤングは中絶することを拒んだという。1940年にプロデューサーのトム・リュイスと結婚するが、これもまたのちに離婚。
1947年の『ミネソタの娘』でアカデミー主演女優賞を受賞。それまでは賞とは一切無縁で、この時もロザリンド・ラッセルが本命視されていたが、予想では最下位だったヤングが受賞するという結果となった。受賞スピーチでは感極まって「やっとのことで…」と言ったまましばし絶句した。女優20周年目での出来事だった。
その後テレビにも進出し、1953年から1961年まで自分のテレビ番組『ロレッタ・ヤング・ショー』で活躍した。ちなみにこの番組は日本ではNHK総合テレビジョンで1960年から1962年にかけて放送された。
     ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%B0


H・ジャクソン・ブラウン・ジュニア H. Jackson Brown, Jr.

H.ジャクソン・ブラウン, Jr.はアメリカの作家で、ひらめきの本『人生のちょっとした教え Life's Little Instruction Book』でよく知られている。この作品はニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーであった(1991~1994)。続編『人生のちょっとした教え2 Life's Little Instruction Book: Volume 2』も同様、1993年にベストセラーとして名を連ねている。

1940年、テネシー州中部に生まれ(今でもそこに住んでいる)。作家になる前は、テネシー州ナッシュビルの広告代理店で制作ディレクターとして働いていた。
『父親の知恵の本 A Father's Book of Wisdom』を出版し、間を空けず『追伸、愛している P.S. I Love You』を発表。父や母から聞かされていた言葉や観察を集めたものであった。後者は旅行に関する有名な名言を含み、マーク・トウェインの発言としてあやまって引用されることがよくある。両者ともとても有名であり、『人生のちょっとした教え Life's Little Instruction Book』に導くが、この本は本来大学進学を希望する彼の息子アダムへの餞別として書かれたものである。「いかに幸せで実り多い人生を送るか」についての511もの覚書で、世界中でベストセラーになった。ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーとして2年以上もランクインし続け、1年以上首位の座を保っていた。『人生のちょっとした教え Life's Little Instruction Book』はハードカバー、ペイパーバックの形態どちらもで同時に1位を獲得した最初の本である。『生き、学び、前進する Live and Learn and Pass It On』もまたニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーになった。『生き、学び、前進する Live and Learn and Pass It On』は彼の妻、ローズマリー・C・ブラウンとの共著で、彼女もまた『ローズマリー・ブラウンのキッチンでの教え Rosemary Brown's Big Kitchen Instruction Book』を始めとする作家である。
ブラウンの著作は35ヶ国語に翻訳されており、大量のカレンダー、ポスター、服飾小物、日記帳、グリーティングカード、オーディオカセット、スクリーンセーバー、はたまたフォーチュンクッキーなどに用いられている。
     ──ウィキペディア英語版(https://en.wikipedia.org/wiki/H._Jackson_Brown,_Jr.


アルバート・アインシュタイン Albert Einstein

1879.03.14生~1955.04.18没
理論物理学者。チューリヒのスイス連邦工科大学に学ぶ。ベルンの特許局技師を経て、プラハ大学、スイス連邦工科大学、ベルリン大学各教授を歴任したが、1933年ナチスのドイツを逃れてアメリカに渡り、プリンストン高級研究所で研究生活をおくった。1905年にチューリヒ大学に学位論文を提出する一方、ブラウン運動の理論的解明、光量子仮説、特殊相対性理論、質量とエネルギーの等価性に関する4つの論文を次々と発表。いずれも物理学史上画期的なものであった。16年には一般相対性理論を発表して、太陽のそばを通る光線が屈曲することを予測し、これは19年の皆既日食の際、A.S.エディントン(1882~1944)の観測により確かめられた。さらに万有引力と電磁気力を包合する統一場理論の構築に努めた。量子統計力学にも多くの業績をあげたが、量子力学の発展につれて主流を占めたN.ボーア(1885~1962)らのコペンハーゲン解釈には最後まで反対し続けた。熱烈な平和主義者であり、ユダヤ人の同胞のためにも献身的な努力を惜しまなかった。第2次世界大戦に際しては、ナチスの脅威に対抗するためにルーズベルト大統領に原子爆弾開発を勧告したが、戦後は核戦争の危険性を除去するよう熱心に訴えた。21年ノーベル物理学賞受賞。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』


エーリヒ・フロム Erich Fromm

1900.03.23生~1980.3.18没
ドイツ生れのアメリカの精神分析学者、社会心理学者。新フロイト派の一人。精神分析の社会学派といわれ、政治的、宗教的、経済的条件で個人の「社会的性格」が形成されると主張し、社会の健全な発展のため、精神分析法を導入することを提唱した。ナチスに追われ、フランスを経て1933年にアメリカに渡り、シカゴ精神分析研究所などの研究員をつとめ、40年アメリカに帰化。49年メキシコに移住し、以降アメリカと両国で活躍していた。51年、メキシコ国立大学教授。主著『自由からの逃走 Escape from Freedom』(1941)。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』


マザー・テレサ Mother Teresa

1910.08.27生~1997.09.05没
アルバニア系のカトリック修道女。フルネームBlessed Mother Teresa of Calcutta。本名Agnes Gonxha Bojaxhiu。マザーテレサ、カルカッタのテレサ、Blessed Teresa of Calcuttaとも呼ばれる。インドのカルカッタの最貧民や遺棄されて死に瀕した病人、老人、子供のため献身的な活動を行なった。現代における最も徹底した愛の使徒として知られる。1928年インドに渡り、ロレット会の修道女としてカトリック系女子高校で教えたが、1946年修道会を出てスラムで働く。1950年厳しい清貧を守りつつ悲惨な境遇の人々に奉仕する「神の愛の宣教者会 Order of the Missinaries of Charity」を設立、1965年からは活動をインド国外にも広げ、1978年には同系の男子修道会が東京都台東区に支部を置いた。1952年「死を待つ人の家 Place of the Pure of Heart」、ハンセン病患者のための「平和の村 Town of Peace」設立。1971年にヨハネス23世教皇平和賞、1979年にノーベル平和賞受賞。1981、1982、1984年日本訪問。世界の宗教者平和会議WCRPなどで講演し、生命の尊厳とそのための施設づくりを提唱した。2003年、異例の早さで福者となった。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』
※2001年から地名の“カルカッタ”は“コルカタ”に改められています。


オードリー・ヘップバーン Audrey Hepburn

1929.05.04生~1993.01.20没
アメリカの映画女優。アイルランド系イギリス人貿易商の父とオランダ貴族の母の子として生れる。両親の離婚でオランダに移り、バレエを学びながら、対独レジスタンス運動に参加する。1948年より舞台や映画に出演しはじめ、51年フランスの女流作家コレット(1873~1954)に見出され『ジジ』のブロードウェー公演に主演。これをみた映画監督W.ワイラー(1902~1981)に『ローマの休日』(1953)の主役に抜擢され、映画女優としてデビュー、アカデミー主演女優賞を受賞した。54年に男優のメル・ファーラーと結婚、68年に離婚。翌年、イタリア人医師と再婚したが、80年に再び離婚した。晩年、国連児童基金(ユニセフ)の親善大使として活躍した。おもな作品に『麗しのサブリナ』(54)、『戦争と平和』(56)、『尼僧物語』(59)、『ティファニーで朝食を』(61)、『シャレード』(63)、『マイ・フェア・レディ』(64)、『おしゃれ泥棒』(66)、『暗くなるまで待って』(67)、『華麗なる相続人』(79)、『オールウェイズ』(89)などがある。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』


オスカー・ワイルド Oscar Wilde

1854.10.16生~1900.11.30没
イギリスの詩人、小説家、劇作家。アイルランド出身。オックスフォード大学に学び、ロンドンの社交界に出て、機知と耽美的生活態度によって注目を浴びた。唯一の小説『ドリアン・グレーの肖像 The Picture of Dorian Gray』(1891)や、『ウィンダミア卿夫人の扇 Lady Windermere's Fan』(92)、『サロメ Salomé』(93刊)、『まじめが肝心 The Importance of Being Earnest』(95)などの戯曲、また、詩や批評など多彩な文筆活動で名声を得たが、1895年男色事件のために入獄し『深淵より De Profundis』(1905、完本62)を執筆。出獄後はフランスへ移り、貧窮のうちに死んだ。いわゆる「世紀末文学」の中心人物。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』



フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー Francois de La Rochefoucauld

ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世(François VI, duc de La Rochefoucauld, 1613年9月15日 - 1680年3月17日)は、フランスの貴族、モラリスト文学者。

名門貴族の生まれであり、多くの戦いに参加した後、いわゆる『箴言集(しんげんしゅう)』を執筆した。彼の作品に見られる辛辣な人間観察には、リシュリューと対立して2年間の謹慎処分を受けたことや、フロンドの乱でマザランと対立したことなどで味わった苦難が反映されているとも言われる。
     ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%95%E3%82%B3%E3%83%BC


ジャン・ド・ラ・ブリュイエール Jean de la Bruyere

ジャン・ド・ラ・ブリュイエール(仏: Jean de La Bruyère, 1645年8月16/17日 - 1696年5月10日/11日)は、フランスのモラリストであり作家である。
17世紀のフランスの宮廷人たちを描き、人生を深く洞察した著書『カラクテール』(フランス語: Les Caractères ou les Mœurs de ce siècle)(和訳: 『人さまざま』)(1688年)によって知られる。
     ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB

アインシュタインなどは、科学一辺倒なのかと思いきや、思いのほか人間的でおもしろいですね。
まさか彼が「愛」にまつわる名言を残しているとは、いやはや意外でした。

余談ですが、さんざん引用させていただいている『ブリタニカ国際百科事典』、送り仮名などの表記が古いようですね。
きっと、記事をお書きになった方はけっこうお年をめされていると推測します。
全面改訂するとなると膨大な時間がかかりますからねぇ。

2016年8月5日金曜日

人生に関する素晴らしい名言10選/10 Excellent Life Quotes

《日本語版 Japanese version》


《英語版 English version》


人生は山あり谷あり、いつも順風満帆とはいかないもの。
だからこそ、明るい未来を迎えたいですよね。
いつも肝に銘じておきたい名言の数々を集めてみました。

写真はプロカメラマン満載のDepositphotosさん(http://depositphotos.com/)、音楽はAC WORKS.CO.,LTD.さんによるクラシック名曲アレンジです。
ショパンの『別れの曲』ですが、メロディーが綺麗で、あまりマイナスのイメージを与えないような気がしたので使ってみました。

さすがと唸らされる、人生を豊かにしてくれる名言を残した人たちの経歴は以下のとおりです。


ブッダ(釈迦) Buddha

紀元前463頃生~紀元前383頃没
仏教の開祖。釈迦牟尼(しゃかむに)ともいう。釈迦は種族名Śākyaの、牟尼は聖者を意味するmuniの音写。釈尊は釈迦牟尼世尊の略称と考えられる。古代北インドの部族、シャカ族(パーリ語ではサーキャ)の国王浄飯王を父とし、摩耶夫人を母とし、姓をゴータマ Gotama(瞿曇〈くどん〉)、名をシッダールタ Siddhārtha(悉達、悉陀)という。生後まもなく母を失い、叔母の手で養育された。16歳で結婚、息子ラーフラをもうけたが、29歳のとき意を決して出家。修業の末、35歳頃ブッダガヤー Buddh Gayāの菩提樹の下で悟りを開き、ブッダ buddha(仏陀)、すなわち覚者(=悟れる者)となった。ワーラーナシの郊外サールナート Sārnāthの鹿野苑で最初の説法を行い、以降80歳で没するまで、ガンジス川流域の中インド各地を周遊して人々を教化した。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

オードリー・ヘップバーン Audrey Hepburn

1929.05.04生~1993.01.20没
アメリカの映画女優。アイルランド系イギリス人貿易商の父とオランダ貴族の母の子として生れる。両親の離婚でオランダに移り、バレエを学びながら、対独レジスタンス運動に参加する。1948年より舞台や映画に出演しはじめ、51年フランスの女流作家コレット(1873~1954)に見出され『ジジ』のブロードウェー公演に主演。これをみた映画監督W.ワイラー(1902~1981)に『ローマの休日』(1953)の主役に抜擢され、映画女優としてデビュー、アカデミー主演女優賞を受賞した。54年に男優のメル・ファーラーと結婚、68年に離婚。翌年、イタリア人医師と再婚したが、80年に再び離婚した。晩年、国連児童基金(ユニセフ)の親善大使として活躍した。おもな作品に『麗しのサブリナ』(54)、『戦争と平和』(56)、『尼僧物語』(59)、『ティファニーで朝食を』(61)、『シャレード』(63)、『マイ・フェア・レディ』(64)、『おしゃれ泥棒』(66)、『暗くなるまで待って』(67)、『華麗なる相続人』(79)、『オールウェイズ』(89)などがある。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

孔子 Confucius

紀元前551生~紀元前479没
中国、春秋時代の学者、思想家。儒教の祖。名は丘。字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。諡(いみな)は至聖文宣王。先祖は公族であったが家はきまめて貧しく、魯に使えて大司寇となったが権力者と衝突し、56歳から十余年間魯を去って諸国を歴遊し、諸侯に道徳的政治の実行を説いたが用いられず、晩年は魯で弟子の教育と著述に専念し、『春秋』やその他儒家の経典を著したと伝えられる。『論語』は彼とその弟子との言行録である。堯、舜、文王、武王、周公旦らを尊崇し、古来の思想を大成し、為政者の特によって民衆を教化する徳治主義を根幹とし、周の遺制たる礼楽制度による周への復古を説いた。その教えは、儒教として中国思想の根幹となり、後世に大きな影響を及ぼした。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ジョージ・バーナード・ショー George Bernard Shaw

1856.07.26生~1950.11.02没
アイルランド出身のイギリスの劇作家。ロンドンに出て小説家を志したが成功せず、音楽批評や劇評を執筆。社会主義に関心をもち、1884年フェビアン協会に入る。イプセン(1828~1906)、ワーグナー(1813~1883)、ニーチャ(1844~1900)らの影響を受ける。喜劇『男やもめの家 Widower's Houses』(1892)によってようやく劇壇に登場。『キャンディダ』(1895)、『人と超人』(1905)、『シーザーとクレオパトラ』(1906)、『メトセラへ帰れ』(1921)、『聖ジョーン』(1923)など作品多数。いずれも思想性と機知に富む喜劇である。その他『イプセン主義真髄 The Quintessence of Ibsenism』(1891、改訂増補1913)、『知識階級婦人のための社会主義および資本主義入門 The Intelligent Woman's Guide to Socialism and Capitalism』(1928)などの著書がある。1925年ノーベル文学賞受賞。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

セーレン・キルケゴール Søren Aabye Kierkegaard

1813.05.05生~1855.11.11没
デンマークの哲学者、神学者。現代実存哲学の創始者。プロテスタンティズムの革新的思想家として知られる。コペンハーゲン大学で神学を学んだ。父の死後(1838)本格的研究を決心、1840年17歳のレギーネ・オルセンと婚約したが、翌年破棄した。41年ベルリンでF.シェリングの講義を聞き、42年帰国、著作活動を始めた。哲学的にはヘーゲル、シェリングの観念論の批判から出発し、「単独者」「主体性」などの概念を中心にして実存論的思索を展開した。神学的には当時のデンマークの教会のあり方を攻撃し、教会的キリスト教の変革を説き、信仰と実存の問題を深く掘下げた。主著
『あれか、これか Enten-Eller』(43)、『おそれとおののき Frgyt og Baeben』(43)、『反復 Gjentagelsen』(43)、『不安の概念 Begrebet Angest』(44)、『人生行路の諸段階 Stadier paa Livets Vei』(45)、『死に至る病 Sygdommen til Døren』(49)。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

アブラハム・リンカーン Abraham Lincoln

1809.02.12生~1865.04.15没
アメリカの政治家。第16代大統領(在任1861~65)。ケンタッキー州の農民の子として生れ、インディアナ州、次いでイリノイ州に移り、ニューセーレムで商店の経営、測量士などさまざまな仕事をしながら独学で法律を勉強、1836年弁護士の資格を取得してスプリングフィールドで開業。34~40年ホイッグ党イリノイ州議会議員となり、46年連邦下院議員に当選、一期(47~49)をつとめて引退。54年カンザス=ネブラスカ法の成立に憤激して政界復帰を決意し、共和党の結成に参加。58年S.ダグラスを敵として連邦上院議員候補となり、敗北はしたが7回にわたって行われた「リンカーン=ダグラス論争」によって全国的に有名となった。60年共和党の大統領候補に指名され、当選。南北対立の激化を前にリンカーンは連邦の維持を政策目的として努力したが、61年4月には南北戦争が開始された。戦況は初め北軍に不利であったが、62年9月戦況が好転しはじめた。同月22日奴隷解放予備宣言を公布、63年1月1日に奴隷解放宣言を発布し、反乱状態にある南部諸州の奴隷解放を宣言。軍事的に後方攪乱をはかるとともに北部、あるいは海外の世論を味方につけ、南部連合側とイギリスの同盟をはばんだ。戦争中の64年大統領選挙で再選。戦争が終りに近づくにつれ、寛大な措置による南部の早期連邦復帰を計画したが、南軍R.リー(1807~1870)将軍降伏(1865.04.09)後、65年4月14日フォード劇場で観劇中、南部人俳優J.ブース(1838~1865)によって撃たれ、翌朝死亡した。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

マルクス・アウレリウス Marcus Aurelius

マルクス・アウレリウス・アントニヌス Marcus Aurelius Antoninus
121.04.26生~180.03.17没
第16代ローマ皇帝(在位:161年 - 180年)。ネルウァ=アントニヌス朝では第五代皇帝。第15代皇帝アントニヌス・ピウスの后妃ファウスティナ・マイヨル(大ファウスティナ)の甥で先帝の外戚にあたり、また大ファウスティナはハドリアヌスとトラヤヌスの傍系血族でもある。
外叔父アントニヌスの皇女で自身の従姉妹であるファウスティナ・ミノル(小ファウスティナ)と結婚して帝位を継承したが、共同皇帝としてハドリアヌスの重臣の子ルキウス・ウェルスが立てられていた。アウレリウスは小ファウスティナとの長女ルキッラを嫁がせて両皇帝の結束を固めたが、169年にウェルスが死んだ事で単独の皇帝となった。
ストア哲学などの学識に長け、良く国を治めた事からネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌスに並ぶ皇帝(五賢帝)と評された。対外政策ではパルティアとの戦争に勝利を収めたが、蛮族への予防戦争として始めたマルコマンニ人、クアディ人、サルマティア人などへの遠征(マルコマンニ戦争)は長期戦となり、国力を疲弊させ、自らも陣中で没した。
軍事よりも学問を好んだ皇帝という姿は、彼の著作である『自省録』への評価を通じて今日も維持されている。これはプラトンの時代から学識者にとって理想とされた「哲人君主」の実現例と見なされているからである。
また、後漢書に見られる安敦とは、彼のことだとされている。
     ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%8C%E3%82%B9

チェーザレ・パヴェーゼ Cesare Pavese

1908.09.09生~1950.08.27没
イタリアの小説家。英米文学に強い関心を示し、すぐれた翻訳を多数残した。反ファシズム活動のため、流刑(1935~36)。難解な叙事・抒情詩集『働き疲れて Lavarare stanca』(36)のなかに、後年の神話的文学観が凝縮されている。ストレーガ賞を受賞(50)した名声のさなかに自殺。主著、小説『故郷 Paesi tuoi』(41)、『青春の絆 Il compagno』(47)、『月とかがり火 La luna e i falò』(50)、小説集『美しい夏 La bella estate』(49)、『鶏の鳴くまえに Prima che il gallo canti』(49)。ほかに、神話論『異神との対話 Dialoghi con Leucò』(47)、日記『生きるという仕事 Il mestiere di vivere』(52)などがある。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ショーロム・アレーカム Sholom Aleichem

ショーレム・アレイヘム(イディッシュ語: שלום־עליכם‎、英語: Sholem Aleichem、ヘブライ語: שלום עליכם‎、1859年3月2日(ユリウス暦2月18日) - 1916年5月13日)は、ウクライナ出身のイディッシュ劇作家、小説家、ジャーナリスト。小説家というよりは劇作家と呼ぶほうが良いとも言われる。

キエフ近郊ペレヤースラウ生まれ。少年時代から執筆活動を行い、オデッサ、キエフ等でジャーナリスト生活に入った。
1889年、キエフで雑誌『ユダヤ民衆文庫』(Folksbibliotek)を創設。これは、自らの伝統の豊かさに源を求めるが、また周辺の文化と歩調を合わせる文学を提唱することによって、輝きを失ったイディッシュ語文学の再興を試みたものである。
はじめコンパクトな短編で読者の心を捉え、次第に連作形式の小説から長編小説へと手を伸ばした。連作の短編としては『牛乳屋テヴィエ(英語版)』(『屋根の上のバイオリン弾き』の項を参照)、長編では『ステンペーニュ(英語版)』、『嵐の中で』、遺作『Mottel the Cantor's Son(英語版)』など。
1905年アメリカに渡り、1906年のアメリカ滞在時にマーク・トゥエインと会う。マーク・トゥエインは、ショーレム・アレイヘムに「私がアメリカのショーレム・アレイヘムです」と自己紹介したという。
のち一時ヨーロッパに戻り、イタリアに住んだが、1914年第一次世界大戦の勃発で再びニューヨークへ移住した(ニューヨークで逝去)。
郷土のシュテットルのユダヤ教徒の生活を描いたユーモラスな作品が多いといわれ、イディッシュ語の口語性をみごとに活かしきっている。「ユダヤ教徒の純情」さを描いて同志愛の必要性を促したともいわれる。
     ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%98%E3%83%A0

ウィリアム・J・クリントン William Jefferson Clinton

1946.08.19生~
アメリカの政治家。第42代大統領(1993~2001)。1968年ジョージタウン大学卒業後、ローズ奨学生として2年間オックスフォード大学に留学、エール大学ロースクールで法学博士、弁護士資格を取得。77年からアーカンソー州検事総長、78年全米最年少(32歳)で同州知事に当選、2期目に落選したが83年に返り咲き、5期つとめた。92年の大統領選挙では民主党候補のなかでも当初不利とされていたが、組織的キャンペーンを背景に予備選挙を勝ち抜き、本選挙でも若さと変革を強調して共和党現職のブッシュ(1924~)大統領に圧勝、12年ぶりに民主党政権を誕生させた。就任後は、国内では財政赤字の削減、健康保険制度の改革、外交面ではロシア支援、国際紛争の解決・防止などを政策の中心課題とした。96年の大統領選挙で共和党のR.ドール候補を敗り、97年から2期目の大統領をつとめた。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

「ショーロム・アレーカム」は“ショーレム・アレイヘム”でしたね。
すみません。
翻訳は一度Google翻訳したものを再度日本語らしく組み立て直したので、人名などはすっかり信用していました。
ネット上の文献をあたって適切な表記を導き出してくれるのかと思っていましたが、間違った認識でした。
反省。

2016年8月4日木曜日

ひらめきを与えてくれる素晴らしい名言10選 /10 Excellent Inspirational Quotes

ひらめきを与えてくれる素晴らしい名言10選 /10 Excellent Inspirational Quotes

《日本語版 Japanese version》


《英語版 English version》


何かに行き詰ったとき、そっと背中を押してくれたり、違う見方を教えてくれたり、そんな著名人の言葉を10集めました。
日本語版の翻訳はcocolo supplie ココロさぷりで行っています。
文章では読んでいるうちに状況が掴めるものですが、名言・格言の類は読んですぐに理解できないと困るので、ちょっと難しいですね。
文自体はそれほど長くも、難解な単語が使われているわけでもないのですが。

今回の動画で使用した写真はDepositphotos(http://depositphotos.com/)のものです。
ストックフォト・サイトとしては老舗といってもいいかもしれません。
音楽はAC WORKS.CO.,LTD.さんのクラシック名曲のオルゴールアレンジです。

では、それぞれの発言者の経歴をみていきましょう。
(H・ジャクソン・ブラウン・ジュニアのみウィキペディア英語版の内容を翻訳しています。)



H・ジャクソン・ブラウン・ジュニア H. Jackson Brown, Jr.

H.ジャクソン・ブラウン, Jr.はアメリカの作家で、ひらめきの本『人生のちょっとした教え Life's Little Instruction Book』でよく知られている。この作品はニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーであった(1991~1994)。続編『人生のちょっとした教え2 Life's Little Instruction Book: Volume 2』も同様、1993年にベストセラーとして名を連ねている。

1940年、テネシー州中部に生まれ(今でもそこに住んでいる)。作家になる前は、テネシー州ナッシュビルの広告代理店で制作ディレクターとして働いていた。
『父親の知恵の本 A Father's Book of Wisdom』を出版し、間を空けず『追伸、愛している P.S. I Love You』を発表。父や母から聞かされていた言葉や観察を集めたものであった。後者は旅行に関する有名な名言を含み、マーク・トウェインの発言としてあやまって引用されることがよくある。両者ともとても有名であり、『人生のちょっとした教え Life's Little Instruction Book』に導くが、この本は本来大学進学を希望する彼の息子アダムへの餞別として書かれたものである。「いかに幸せで実り多い人生を送るか」についての511もの覚書で、世界中でベストセラーになった。ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーとして2年以上もランクインし続け、1年以上首位の座を保っていた。『人生のちょっとした教え Life's Little Instruction Book』はハードカバー、ペイパーバックの形態どちらもで同時に1位を獲得した最初の本である。『生き、学び、前進する Live and Learn and Pass It On』もまたニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーになった。『生き、学び、前進する Live and Learn and Pass It On』は彼の妻、ローズマリー・C・ブラウンとの共著で、彼女もまた『ローズマリー・ブラウンのキッチンでの教え Rosemary Brown's Big Kitchen Instruction Book』を始めとする作家である。
ブラウンの著作は35ヶ国語に翻訳されており、大量のカレンダー、ポスター、服飾小物、日記帳、グリーティングカード、オーディオカセット、スクリーンセーバー、はたまたフォーチュンクッキーなどに用いられている。
     ──ウィキペディア英語版(https://en.wikipedia.org/wiki/H._Jackson_Brown,_Jr.

アッシジのフランチェスコ Francis of Assisi

1181(1182?)生~1226.10.03没
フランシスコ修道会(清貧と説教を中核とするカトリック托鉢修道会)の創立者。イタリアの守護聖人(祝日10月4日)。フランシスコとも呼ばれる。イタリア名 Giovanni Francesco Bernardone。ラテン語、フランス語、吟遊詩人の文学を学び、軍人生活に入ったが、スポレトで幻視を得て帰郷し、世俗的財と家族の絆を捨て清貧の生活に入った。サン・ダミアノ聖堂を再建し、キリストのことばを聞いて説教を開始。弟子が集まると単純な生活戒律をつくり、1209年教皇の許可を得た。1212年アッシジのクララ(1194~1253)を中心とする女弟子を定住させて戒律を与え、クララ会を創始。1221年フランシスコ会第三会を始めた。会は国外にも休息に発展。1217年エジプトに渡ってスルタンに説教し、感服させて聖地巡礼を許されたという。帰国して新しい戒律を編み、1223年教皇の許可を得た。1224年夏ラベルナ山において聖痕を受け、盲目となって生涯を終えた。ジョット・ディ・ポンドーネら多くの画家によって描かれた。アッシジにフランチェスコ博物館がある。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ヘレン・ケラー Helen Adams Keller

1880.06.27生~1968.06.01没
アメリカの女性教育家。生後19ヶ月でかかった重病のため視力と聴力を失い、ほどなく唖者になった。6歳のとき両親がケラーの教育についてアレグザンダー・G.ベルに相談したのが機縁でアン・サリバンが教育にあたることになった。サリバン自身も当時は視力を幾分回復はしていたが、一時期失明状態を経験しており、ボストンのパーキンズ盲学校の卒業生で、当時20歳であった。彼女は1887年3月に教育を開始し、1ヵ月たたないうちにケラーに言葉を教えることができた。サリバンのたゆまぬ指導と、ボストンのホーレス・マン聾学校、ニューヨークのライト・ヒューメイソン聾学校での教育の成果により、ケラーは読み書き話すことのほか、普通の学科にも習熟した。1900年にはラドクリフ・カレッジに入学、1904年優等で卒業した。サリバンの教師としての能力はケラーの才能に劣らぬ驚くべきものであった。彼女は1936年に死ぬまで献身的な伴侶として尽した。ケラーはその後国内国外で講演旅行を重ねるなど盲聾唖者の福祉のために尽力し、1937年、1948年、1955年に来日した。『私の半生記 The Story of My Life』(1902)、『暗黒の中から Out of the Dark』(1913)、『私の宗教 My Religion』(1927)、『入信のすすめ Let Us Have Faith』(1940)など多くの著作がある。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ジミー・ディーン Jimmy Dean

1928.08.10生~2010.06.13没
アメリカのカントリー・ミュージック歌手、俳優、実業家。

テキサス州プレインビュー生まれ。母親からピアノを習い、ハーモニカやアコーディオンも得意になる。空軍在籍中、ナイトクラブで軍人グループの代役でアコーディオンを演奏したのがきっかけで、そのままグループの一員となる。除隊後、放送局で働きながら音楽活動をし、自分の番組を持つようになる。1961年、『ビッグ・バッド・ジョン』でビルボード誌で全米1位を5週間記録する。1964年にはABCテレビで『ジミー・ディーン・ショー』を持ち、1971年には『007 ダイヤモンドは永遠に』で映画デビューする。
晩年は、レストランのチェーン店やソーセージを製造するジミー・ディーン・ミート・カンパニーの経営等に力を注いだ。2010年6月13日、バージニア州の自宅で死去。81歳没
     ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3

ロレッタ・ヤング Loretta Young

本名:Gretchen Young
1913.01.06生~2000.08.12没
アメリカ合衆国ユタ州ソルトレイクシティ出身の女優。3歳のときに家族でハリウッドに移り住む。

両親が離婚したため、一家はロサンゼルスで下宿屋を開業。家計を助けるために姉のポリー・アン、サリーと共に子役として映画に出演。マーヴィン・ルロイ監督に声をかけられ、1928年に本格的に映画デビューした。
1930年、17歳のときに26歳の俳優グラント・ウィザーズと駆け落ちするが、翌年に関係を解消。1934年にはクラーク・ゲーブルと共演をきっかけに関係を持ち、翌年に妊娠をしたが世間にはそれを隠し通したまま極秘に娘を出産。世間には養女をとったとしていたが、晩年に書かれた自伝でゲーブルとの間にできた子であることを告白している。当時ゲーブルには妻がおり、またカトリック教徒として育てられたヤングは中絶することを拒んだという。1940年にプロデューサーのトム・リュイスと結婚するが、これもまたのちに離婚。
1947年の『ミネソタの娘』でアカデミー主演女優賞を受賞。それまでは賞とは一切無縁で、この時もロザリンド・ラッセルが本命視されていたが、予想では最下位だったヤングが受賞するという結果となった。受賞スピーチでは感極まって「やっとのことで…」と言ったまましばし絶句した。女優20周年目での出来事だった。
その後テレビにも進出し、1953年から1961年まで自分のテレビ番組『ロレッタ・ヤング・ショー』で活躍した。ちなみにこの番組は日本ではNHK総合テレビジョンで1960年から1962年にかけて放送された。
     ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%B0

ヴィンス・ロンバルディ Vince Lombardi

(ヴィンセント・トマス・ロンバルディ Vincent Thomas Lombardi)
1913.06.11生~1970.09.03没
アメリカンフットボールのコーチ。1959年から1967年の9シーズンに渡りNFL グリーンベイ・パッカーズのヘッドコーチを、1969年シーズンにワシントン・レッドスキンズのヘッドコーチを務めた。ヘッドコーチとして通算で105勝35敗6分け、勝率.750(NFLの方針で引き分けは無視)という成績を収め、負け越したことはなかった。彼がパッカーズを率いたポストシーズンでの通算成績は9勝1敗で、その間に5度のリーグチャンピオンシップ優勝を成し遂げ、そして第1回および第2回スーパーボウルを連覇した。ロンバルディの人気は当時リチャード・ニクソンが1968年の大統領選挙においてロンバルディを副大統領候補にしようと思ったといわれたほど高かった。
     ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3

アンネ・フランク Anne Frank

1929.06.12生~1945.03?没
ユダヤ人で『アンネの日記』の作者。1933年ナチスの迫害を逃れ一家でオランダに亡命。ドイツ軍がオランダを侵略した1942~44年、オランダ人の好意でアムステルダムの屋根裏にひそんでいたが密告によって1944年8月4日ゲシュタポに逮捕され、ベルゲンの強制収容所で終戦の直前に姉と同じチフスで亡くなった。隠れ家での生活を多感で繊細な少女の目で書き綴った日記が戦後父親の手で発見され、1952年アメリカで出版されると人々に感銘を与え、30ヵ国語以上に翻訳されベストセラーになった。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

オードリー・ヘップバーン Audrey Hepburn

1929.05.04生~1993.01.20没
アメリカの映画女優。アイルランド系イギリス人貿易商の父とオランダ貴族の母の子として生れる。両親の離婚でオランダに移り、バレエを学びながら、対独レジスタンス運動に参加する。1948年より舞台や映画に出演しはじめ、51年フランスの女流作家コレット(1873~1954)に見出され『ジジ』のブロードウェー公演に主演。これをみた映画監督W.ワイラー(1902~1981)に『ローマの休日』(1953)の主役に抜擢され、映画女優としてデビュー、アカデミー主演女優賞を受賞した。54年に男優のメル・ファーラーと結婚、68年に離婚。翌年、イタリア人医師と再婚したが、80年に再び離婚した。晩年、国連児童基金(ユニセフ)の親善大使として活躍した。おもな作品に『麗しのサブリナ』(54)、『戦争と平和』(56)、『尼僧物語』(59)、『ティファニーで朝食を』(61)、『シャレード』(63)、『マイ・フェア・レディ』(64)、『おしゃれ泥棒』(66)、『暗くなるまで待って』(67)、『華麗なる相続人』(79)、『オールウェイズ』(89)などがある。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

マヤ・アンジェロウ Maya Angelou

1928.04.04生~2014.05.28没
アメリカ合衆国の活動家、詩人、歌手、女優である。マヤ・アンジェルーと表記されることもある。本名は、マーガリート・アニー・ジョンソン(Marguerite Annie Johnson)。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアとともに公民権運動に参加。1993年、ビル・クリントンのアメリカ合衆国大統領就任式にて自作の詩を朗読した。2011年、大統領自由勲章を受章。2014年5月28日、86歳で死去。代表作は、自伝の『歌え、翔べない鳥たちよ』。
     ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AD%E3%82%A6

ジョーゼフ・キャンベル Joseph Campbell

1904.03.26生~1987.10.30没
アメリカ合衆国の神話学者。ジョゼフ・キャンベルと表記されることもある。比較神話学や比較宗教学で知られる。
彼の作品は広大で、人間の経験に基づく多面的なものである。彼の人生観は、しばしば「至上の幸福に従え」(Follow your bliss)という一文に要約される。
ジョージ・ルーカスがキャンベルの神話論を『スター・ウォーズ』に採り入れたというエピソードもよく知られている。
     ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB

2016年8月3日水曜日

人類の宝「世界遺産」

今まで24(未登録の景観2つ含む)の世界遺産の景観をお届けしてきましたが、もうすべてご覧になりましたか?
「まとめて観たい」という方にはYouTubeの再生リストに登録してあります。

《黄昏の世界遺産》シリーズ
世界遺産の夕陽 Sunset on World Heritage
https://www.youtube.com/watch?v=A6hGY3C3OZk&list=PLe99y-VJsR20eB3aD6CoaHUuQ4ENt5-zr

個別のリンクはこちら↓
ヴェネツィアの夕陽 Sunset on Venice
ギザのピラミッドの夕陽 Sunset on Pyramids in Giza
モン・サン・ミシェルの夕陽 Sunset on Mont Saint Michel
イグアスの滝の夕陽 Sunset on Iguassu Falls
イースター島の夕陽 Sunset on Easter Island
武夷山の夕陽 Sunset on Wuyi shan
スコータイの夕陽 Sunset on Sukhothai
パルミュラの夕陽 Sunset on Palmyra
カトマンズ盆地の夕陽 Sunset on Katmandu Valley
グランド・キャニオンの夕陽 Sunset on Grand Canyon
ドレスデンの夕陽 Sunset on Dresden
ウルル(エアーズ・ロック)の夕陽 Sunset on Uluru Ayers Rock

《絶景なる世界遺産~The Great Scenery for the Future 未来へ残す壮大な景観》シリーズ
世界遺産 world heritage
https://www.youtube.com/watch?v=VEnXdR5wj9M&list=PLe99y-VJsR220PUnVzGtfAs4UfrxmDsaT

個別のリンクはこちら↓
The Great Scenery for the Future [Victoria Falls]
The Great Scenery for the Future [The Rhine Ravine]
The Great Scenery for the Future [Petra]
The Great Scenery for the Future [Momument Valley]
The Great Scenery for the Future [Machu Picchu]
The Great Scenery for the Future [The Great Wall of China]
The Great Scenery for the Future [Guanacaste]
The Great Scenery for the Future [Edifices by A Gaudiy]
The Great Scenery for the Future [Himalaya Range]
The Great Scenery for the Future [Cappadocia]
The Great Scenery for the Future [The Isle of Capri]
The Great Scenery for the Future [Cape of Good Hope]

さて、そもそも“世界遺産”とは何なんでしょう?
以下は『ブリタニカ国際大百科事典』から関連項目を引用したものです。

【世界遺産】

国際連合教育科学文化機関UNESCOの世界遺産リストに登録されたさまざまな地域または物件。遺産は、「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約(通称:世界遺産条約)」に従い“顕著で普遍的な価値”を有するものとして選定される。この条約は1972年のUNESCO総会で採択され、世界の文化財や自然環境を保存・保護する国際協力体制を規定している。世界遺産は文化遺産、自然遺産、複合遺産の3種類に分類される。文化遺産には多数の歴史的建造物や都市、重要な考古遺跡、そして記念碑的な彫刻、絵画といった芸術作品が含まれる。また自然遺産は以下の自然環境を対象とする。(1)地球の生命の記録、またはその地質学的過程の顕著な例を備える、(2)現在も進行する生態学上、生物学上の進化の過程をみせる優れた例を示している、(3)稀有で独特であり無比であるか、傑出した美しさを特徴とする自然現象を含む、(4)希少または絶滅に瀕している動植物の生息地、あるいは他に例のない生物の多様性を示す場所を備える。複合遺産は文化遺産と自然遺産双方の要素を備える。世界遺産リストに登録されている文化遺産と自然遺産の割合はおよそ3対1で、毎年新たな地域および物件がリストに加わる。世界遺産として登録されると、その地域の観光事業が促進され、しばしば地域経済が活性化する。UNESCOは発展途上国における遺産保護・修復のための数多くの取り組みに資金を提供している。なお、公害、自然災害あるいはその他の問題により深刻な状態にある遺産については、状態が改善されるまで「危機にさらされている世界遺産リスト」に登録される。

【世界遺産条約(正式名称:世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約)】

世界的に重要な文化遺産、自然遺産を保護するため、1972年のユネスコ総会で採択された。加盟国の拠出による世界遺産基金で遺産の修復や保護にあたる。エジプトのピラミッド、中国の万里の長城、ガラパゴス諸島など。2015年の時点で1007の登録数におよぶ。世界遺産の一部は開発や戦争、密猟、人口増加、難民流入などの理由で危機にさらされている。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』

どういったものが世界遺産に認定されるのかといえば──、

登録種別:
自然遺産/文化遺産/複合遺産
登録基準:
(i) 人類の創造的天才の傑作を表現するもの
(ii) ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に監視、人類の価値の重要な交流を示すもの
(iii) 現存する、または、消滅した文化的伝統、または、文明の、唯一の、または、少なくとも稀な証拠となるもの
(iv) 人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または、景観の顕著な例
(v) 特に、回復困難な変化の影響下で損傷されやすい状態にある場合における、ある文化(または、複数の文化)或は、環境と人間との相互作用を代表する伝統的集落、または、土地利用の顕著な例
(vi) 顕著な普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または、芸術的、文学的作品と、直接に、または明白に関連するもの
(vii) もっともすばらしい自然的現象、または、ひときわすぐれた自然美をもつ地域、及び、美的な重要性を含むもの
(viii) 地球の歴史上の主要な段階を示す顕著な見本であるもの〔生物の記録、地形の発達における重要な地学的進行過程、或は重要な地形的、または、自然地理的特性などを含む〕
(ix) 陸上、淡水、沿岸、及び、海洋生態系と動植物群集の進化と発達において、進行しつつある重要な生物学的、生理学的プロセスを示す顕著な見本であるもの
(x) 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの〔科学上、または、保全上の観点から、すぐれて普遍的価値をもつ絶滅の恐れのある主が存在するものを含む〕
     ──『世界遺産事典 1007全物件プロフィール 2015改訂版』(シンクタンクせとうち総合研究機構)

日本の象徴ともいうべき富士山は、ゴミが散乱していることを理由に一度「自然遺産」としての認定を却下され、カテゴリーを「文化遺産」に変更してやっと登録されたそうです。
登録されようがされまいが、ゴミはきちんと持ち帰るなり、ゴミ箱に入れるなりするのがマナーでしょう。(中国ではそうでもないようですが……。)
自然も文化も後世にその素晴らしさを伝えようというのが、世界遺産の趣旨なので、いつまでも守り続けたいですね。
そのためには、人間(の考え方)が変わるということも必要でしょう。
もしくは、それぞれの文化背景にゆだねる価値観ではなく、全世界で通じる“常識”を生み出すべきなのかもしれませんね。

自然が作り出す造形美はもちろんですが、さらに驚嘆すべきは人間の叡智ですね。
人類は地球が生み出した最高のものといってもいいかもしれません(時々は間違いを犯すこともありますが)。
先人たちが特別だったのではなく、無限の可能性はあなたの中にも宿っているはず、ただ眠っているだけなんです。
本来の自分を知り、その能力を最大限に発揮できるよう、自分磨きに精を出し、人生を豊かにしましょう!

2016年8月2日火曜日

絶景なる世界遺産 番外編

世界遺産には登録されていない絶景を2つお届けします。
ユネスコのURLも詳細もありません、ご了承のほど。


The Great Scenery for the Future [The Isle of Capri]
未来へ残す壮大な景観 [カプリ島]


イタリア南部、ナポリからおよそ30kmに位置するカプリ島。
面積はおよそ10平方kmほどの小さな島ですが、世界でも有名なリゾート地です。

古代ローマ皇帝たちに愛され、地中海の宝石と謳われる絶景です。

およそ2000年前、古代ローマ皇帝アウグストゥスはこの島に魅せられ、当時所有していたイスキア島とこの島を交換したといわれています。

街の中心部には、ウンベルト1世広場があります。

海に面した高台の上にある一つの遺跡、2代目ローマ皇帝ティベリウスの別荘、ヴィラ・ジョヴィス。
ティベリウスは紀元後26年、ここに住居をおいてローマ帝国を治めていました。
この島をこよなく愛し、12軒もの別荘を建てたといわれています。
ローマ皇帝の時代から多くの人々を魅了してきたんですね。

この島には海の上からしか見ることのできない絶景もあります。
「緑の洞窟」は時間帯によって水の色が美しく変化します。
カプリ島で最も人気がある「青の洞窟(グロッタ・アッズラ)」、手こぎのボートに乗り換えて、洞窟の中へと入っていくと、神秘的な光の空間が広がっています。
水中の穴から入ってくる外の光が屈折することで、洞窟全体が青く浮かび上がります。
死ぬまでに一度は見ておきたい絶景なんですが、閉所恐怖症のわたしはパニックになるかも……。

BGMとして使用させていただいているのはDOVA-SYNDROME さん(http://dova-s.jp/)の音楽です。

イタリア南部、カンパーニア州ナポリ県の小島。ナポリ湾口、ソレント半島の西方沖にある。石灰岩や凝灰岩から成り、周囲は高い断崖をなして海にのぞんでいる。有名な北岸のグロッタアッズラ(光線の具合で洞窟内がみごとな青色に輝く)は海食洞。有史以前から人が住み古代ギリシアの植民地となり、ローマ時代には保養地として知られたが、今日でも温暖な気候と風光美に恵まれた世界的な観光地。主要な町はカプリとアナカプリ、主要港はマリーナグランデ。オリーブ油、白ワインを産する。古代ローマ皇帝アウグスツスやチベリウス帝の別荘跡がある。
     ──『ブリタニカ国際大百科事典』





The Great Scenery for the Future [Momument Valley]
未来へ残す壮大な景観 [モニュメント・ヴァレー]


砂漠の大地に赤い岩山が点在するアメリカの原風景、モニュメントバレー。
遺跡のような丘が切り立つこの場所は多くの人々の心を引きつけてきました。
赤い大地にたたずむ、芸術的な岩の造形の数々、自然が造り出した絶景です。

ユタ州北部とアリゾナ州南部に広がるモニュメントバレー、ジョン・フォード監督は「駅馬車」など多くの西部劇をここで撮影しました。
現在、飛行場となっている場所で、映画「駅馬車」で西部開拓時代の街の撮影がおこなわれました。

モニュメントバレーを横切る国道163号線、映画「イージー・ライダー」の舞台となった場所です。

モニュメントバレーに点在する岩山は砂岩でできており、それぞれ名前がつけられています。
象に見えることから「エレファント・ビュート」と呼ばれている岩。
フクロウにそっくりな岩「オウル・ロック」。
横を向いたウサギに見える岩山「ラビット」。
「サンズ・アイ」太陽の目と呼ばれる岩山、など多数あります。

モニュメントバレーには紀元前4000年頃から人が住んでいた痕跡があり、古代先住民の遺跡や壁画などが数多く残されています。

こちらも音楽はDOVA-SYNDROME さん(http://dova-s.jp/)。

2016年8月1日月曜日

絶景なる世界遺産 10

The Great Scenery for the Future [Victoria Falls]
未来へ残す壮大な景観 [ビクトリア瀑布]


アフリカ南部を流れるザンベジ川中流、ザンビアとジンバブエの国境付近に流れ落ちるヴィクトリア瀑布。
(動画では「ビクトリア瀑布」と表記しています。
統一されておらず、すみません。)
南米のイグアス(アルゼンチン/ブラジル)、北米のナイアガラ(アメリカ/カナダ)と並び、世界三大瀑布の一つに数えられる絶景です。

滝の下流にある「悪魔の谷」は、かつてヴィクトリアの滝だったところが侵食されて谷ができました。
今でも徐々に上流へと侵食が続いています。

地形をも変えてしまう水の威力を、まざまざと見せつけられますね。
自然とは恩恵と被害が表裏一体だとつくづく思い知らされます。

この世界遺産の詳細を記しておきますね。



モシ・オア・トゥニャ/ヴィクトリア瀑布《ザンビア/ジンバブエ》
Mosi-oa-Tunya/Victoria Falls《Zambia/Zimbabwe》

http://whc.unesco.org/en/list/509

登録種別:自然遺産
登録基準:(vii) もっともすばらしい自然的現象、または、ひときわすぐれた自然美をもつ地域、及び、美的な重要性を含むもの;(viii) 地球の歴史上の主要な段階を示す顕著な見本であるもの〔生物の記録、地形の発達における重要な地学的進行過程、或は重要な地形的、または、自然地理的特性などを含む〕
登録年:1989

モシ・オア・トゥニャ/ヴィクトリア瀑布は、ザンビアの南部州リヴィングストン地区とジンバブエの北マタペレランド州ワンゲ地区にあり、ナイアガラの滝、イグアスの滝と共に世界三大瀑布のひとつである。幅1700m、最大落差150mでザンビアとジンバブエ両国境を流れる南アフリカ一の大河ザンベジ川の中流に、轟音を響かせる水煙のパノラマを展開する。現地語のモシ・オア・トゥニャは、「雷鳴のような水煙」の意。その水量は、最大時毎分54万トンと膨大で、滝の水煙は30km先からも見えるといわれる。この滝を1855年11月16日に初めて探検した英人探検家デヴィット・リヴィングストン(1813~1873年)が名付け親で、母国英国のヴィクトリア女王(1837~1901年)の名前に由来する。滝から数キロメートル上流の動物公園では、キリン、バッファロー、シマウマ、テン、エランド、レイヨウなどが見られる。モシ・オア・トゥニャ/ヴィクトリア瀑布は、都市開発、観光客の増加、外来種などの脅威や危険への対応策など、ザンビアとジンバブエ両国による共同の保護管理計画の策定が求められている。
     ──『世界遺産事典 1007全物件プロフィール 2015改訂版』(シンクタンクせとうち総合研究機構)


流れ落ちる水の轟音の代わりに、DOVA-SYNDROME さん(http://dova-s.jp/)の音楽を合わせています。

2016年7月31日日曜日

絶景なる世界遺産 9

The Great Scenery for the Future [The Rhine Ravine]
未来へ残す壮大な景観 [ライン渓谷]


ドイツ中央部を南北に渡って流れるライン川、その中部流域が世界遺産に登録されています。
両岸に建ち並ぶ古城とぶどう畑の景観が多くの芸術家や作曲家を魅了した絶景です。

ライン川の中部流域は「ロマンティック・ライン」と呼ばれます。
多くの古城や歴史的な建物が点在し、この辺りは白ワインの産地としても知られています。

13世紀から14世紀にかけ、ライン川を行き交う船に税金が課され、税関所として建てられた「ネズミの塔」。
中州に立てられた「ブファルツ城」は、税金を支払わない船が通過するのを監視するために建てられた砦です。
「ライヒェンシュタイン城」14世紀、川を渡る船をおそう盗賊団の根城でした。
盗賊討伐のため破壊されたものの、その後再建されました。
「ラインシュタイン城」西暦980年頃、税関として建てられ盗賊団討伐の拠点となりました。

昔、数多くの船が沈没したというライン渓谷最大の難所「ローレライの岩」
不実な恋人を嘆いて川に身を投げた美しい乙女ローレライは、行き交う船を誘惑し、沈めてしまうという伝説が残されています。

川の流れにともなって流れるDOVA-SYNDROME さん(http://dova-s.jp/)の音楽。
どちらも流れを楽しんでください。

では、この世界遺産の詳細を見ることにしましょうか。



ライン川中流域の渓谷《ドイツ》
Upper Middle Rhine Valley《Germany》

http://whc.unesco.org/sites/1066.htm

登録種別:文化遺産
登録基準:(ii) ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に監視、人類の価値の重要な交流を示すもの;(iv) 人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または、景観の顕著な例;(v) 特に、回復困難な変化の影響下で損傷されやすい状態にある場合における、ある文化(または、複数の文化)或は、環境と人間との相互作用を代表する伝統的集落、または、土地利用の顕著な例
登録年:2002

ライン川中流域の渓谷は、ドイツの南部、ラインラント・ブファルツ州とヘッセン州のライン川中流の川幅が狭い渓谷のマインツからコブレンツまでの65kmにわたって展開する。ライン川中流域の渓谷は、ヨーロッパにおける地中海地域と北部地域との間の2000年の歴史をもつ重要な輸送ルートの一つである。ライン川中流域の渓谷は、人間が築いた長い歴史を物語るラインシュタイン城、ライヒェンシュタイン城、ゾーンエック城、シュタールエック城、シェーンブルク城、ラインフェルス城、グーテンフェルツ城、エーレンフェルツ城など伝説に包まれた古城群、白い壁に黒い屋根の家々が印象的なリューデスハイム、コブレンツ、ビンゲンなどの歴史都市、そして、ドイツ有数のワインを産するブドウ畑が、ドラマチックな変化に富んだ自然景観と共に絵のように展開する。ライン川中流域の渓谷には、長年にわたる歴史とローレライの岩の伝説などが息づいており、詩人のハインリッヒ・ハイネ(1797~1856)、作家、芸術家、そして作曲家などに強い影響を与えた。
     ──『世界遺産事典 1007全物件プロフィール 2015改訂版』(シンクタンクせとうち総合研究機構)

2016年7月30日土曜日

絶景なる世界遺産 8

The Great Scenery for the Future [Petra]
未来へ残す壮大な景観 [ペトラ]


広大な砂漠の真ん中に突如として現れる、かつて繁栄を極めた古代都市の遺跡があります。
薔薇色の都とよばれるペトラです。
巨大な岩の奥深くに忽然と現れる神秘的な絶景です。

ヨルダン中東部、高さ100mを超える巨大な岩の間に細長い谷が続いています。
谷にできた道はおよそ1.5kmに渡って続きます。
およそ2300年前につくられた古代都市、ペトラの入り口です。

正面には「エル・ハズネ」と呼ばれる巨大な宝物庫がそびえます。
遺跡は岩の壁を彫り込んでつくられており、柱にはエジプトやギリシャなどの古代の神々が刻まれています。
失敗したからといってやり直せるはずはなく、当然失敗は許されない、作業は極度の緊張を強いられたことでしょうね。
そんなストレスにも負けず、これほどのものを造り上げてしまう、人間の能力は大したものです。

「エル・ハズネ」からさらに奥へと進むと、およそ3万人が暮らし、1000を超える住居や神殿の跡が残っています。
岩に彫り込まれた無数の穴、ここに住んでいた遊牧民族ナバテア人の墓です。
ヨーロッパとアジアをつなぐ公益で巨大な富を手にし、街を築きました。
かつての繁栄を偲ばせるローマ式の円形劇場。
他にも街を訪れる人々をもてなすための施設が数多く残されています。

DOVA-SYNDROME さん(http://dova-s.jp/)の音楽にのせて、バラ色の古代都市の絶景をお楽しみください。

この世界遺産の詳細は以下のとおりです。



ペトラ《ヨルダン》
Petra《Jordan》

http://whc.unesco.org/sites/326.htm

登録種別:文化遺産
登録基準:
(i) 人類の創造的天才の傑作を表現するもの;(iii) 現存する、または、消滅した文化的伝統、または、文明の、唯一の、または、少なくとも稀な証拠となるもの;(iv) 人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または、景観の顕著な例
登録年:1985

ペトラは、首都アンマンの南190km、標高950m、岩山に囲まれたワジ(涸れ川)の峡谷にある。ペトラは、ギリシャ語で「岩」という意味で、岩山のシックと呼ばれる亀裂に、アラブ系の遊牧民族のナバタイ人が砂岩の壁面を彫った紀元前2世紀頃の古代遺跡。最も有名なのは、ベドウィンが「ファラオの宝物庫」と呼び、世界一美しい葬祭殿とされた高さ30m、奥行き25mのバラ色のエル・カズネ・ファルウンの神殿。この他にローマ時代の1~3世紀に建造された6000人以上もの収容能力があったといわれる円形のローマ劇場跡、浴場、宴会場、墳墓群、礼拝堂、住居址、貯水池、舗装道路などが残る。1812年にスイス人の探検家ヨハン・ブルクハントによって発見された。英国の詩人ディーン・パーコンは、ペトラを「東の国の壮麗な要塞、時の刻みと同じ位古いバラ色の都市、いつしか私もこの中に一体化していく」と称賛した。また、映画「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」のクライマックス・シーンの舞台にもなっている。レバノンのバールベク、イランのペルセホリスと共に中東三大遺跡として称えられる。
     ──『世界遺産事典 1007全物件プロフィール 2015改訂版』(シンクタンクせとうち総合研究機構)

2016年7月29日金曜日

絶景なる世界遺産 7

The Great Scenery for the Future [Machu Picchu]
未来へ残す壮大な景観 [マチュピチュ]


南米ペルー、6000m級の山々が連なるアンデス山脈の中に突如として現れる遺跡、標高およそ2300mの断崖の上に築かれた幻の都マチュピチュ。
美しい高地にそびえる神秘的な絶景です。

ペルー南東部の街クスコから列車で4時間、終点の街、アグアス・カリエンテス。
このマチュピチュの麓の街には世界中から数多くの観光客が訪れます。
アグアス・カリエンテスの街からつづら折りの道を登ります。

20世紀まで知られることのなかった幻の都マチュピチュ。
精巧に石が積み上げられていて、かつての人の技術水準の高さに驚かされます。
石造りの街並みはとても高度な技術でつくりあげられています。
15世紀、南アメリカに勢力を誇ったインカ帝国によって築かれ、最大でおよそ750人の人々が住んでいたといわれています。
街中には山の湧き水を使った水路も整備されています。
16世紀、インカ帝国はスペインに滅ぼされてしまいましたが、高地にあったマチュピチュは発見されることなく、当時のままの姿をとどめています。

天空に築かれた街の絶景に色を添えるのは、cocolo supplie ココロさぷりではすっかりおなじみ?のDOVA-SYNDROME さん (http://dova-s.jp/)の音楽です。

この世界遺産の詳細を記しておきますね。



マチュ・ピチュの歴史保護区《ペルー》
Historic Sanctuary of Machu Picchu《Peru》

http://whc.unesco.org/sites/274.htm

登録種別:複合遺産
登録基準:(i) 人類の創造的天才の傑作を表現するもの:(iii) 現存する、または、消滅した文化的伝統、または、文明の、唯一の、または、少なくとも稀な証拠となるもの;(vii) もっともすばらしい自然的現象、または、ひときわすぐれた自然美をもつ地域、及び、美的な重要性を含むもの;(ix) 陸上、淡水、沿岸、及び、海洋生態系と動植物群集の進化と発達において、進行しつつある重要な生物学的、生理学的プロセスを示す顕著な見本であるもの
登録年:1983

マチュ・ピチュは、インカ帝国の首都であったクスコの北約114km、アンデス中央部を流れるウルバン川上流の緑鮮やかな熱帯雨林に覆われた山岳地帯、標高2280mの四方を絶壁で隔てられた自然の要害の地にあるかつてのインカ帝国の要塞都市。空中からしかマチュ・ピチュ(老いた峰)とワイナ・ピチュ(若い峰)の稜線上に展開する神殿、宮殿、集落遺跡、段々畑などの全貌を確認出来ないため、「謎の空中都市」とも言われている。総面積5平方kmの約半分は斜面、高さ5m、厚さ1.8mの城壁に囲まれ、太陽の神殿、王女の宮殿、集落遺跡、棚田、井戸、排水溝、墓跡などが残る。日時計であったとも、生贄を捧げた祭壇であったとも考えられているインティワタナなど高度なインカ文明と祭祀センターが存在したことがわかる形跡が至る所に見られ、当時は、完全な自給自足体制がとられていたものと思われる。アメリカの考古学者ハイラム・ビンガムが1911年に発見、長らく発見されなかったためスペインの征服者などからの侵略や破壊をまぬがれた。また、マチュ・ピチュは、段々畑で草を食むリャマの光景が印象的であるが、周囲の森林には、絶滅の危機にさらされているアンデス・イワドリやオセロット、それに、珍獣のメガネグマも生息している。2008年の第32回世界遺産委員会ケベック・シティ会議で、森林伐採、地滑りの危険、無秩序な都市開発と聖域への不法侵入の監視強化が要請された。2010年1月24日、マチュ・ピチュ遺跡付近で、豪雨による土砂崩れが発生、クスコに至る鉄道が寸断され、日本人観光客を含む約2000人が足止めされた。
     ──『世界遺産事典 1007全物件プロフィール 2015改訂版』(シンクタンクせとうち総合研究機構)

2016年7月28日木曜日

絶景なる世界遺産 6

The Great Scenery for the Future [The Great Wall of China]
未来へ残す壮大な景観 [万里の長城]


万里の長城、秦の始皇帝の時代からおよそ2000年に渡り築かれました。
中国の歴史とともにつくりあげられた絶景がそこにあります。

首都北京から北西およそ70kmにある万里の長城の中で最も有名な八達嶺、高さ8m、幅6mの城壁が築かれています。

中国東部、渤海(ぼっかい)に突き出た長城の東端、老龍頭(ろうりゅうとう)。
16世紀、明王朝の時代に築かれました。
老龍頭とは長城を龍にたとえ、その頭に当たる場所という意味です。

山海関、万里の長城の東端から最初の関所です。

長城の中でも最も険しい場所に築かれた司馬台、標高およそ1000m、断崖絶壁の上につくられています。

長城に沿って西に進むと砂漠へと景色が変わります。
老龍頭からおよそ3500km、嘉峪関(かよくかん)、万里の長城の一番西の関所です。
その嘉峪関からおよそ7km、万里の長城の西の果てです。

歴史を語る最大の建造物のBGMはDOVA-SYNDROME さん (http://dova-s.jp/)の音楽です。

では、この世界遺産の詳細を見ることにしましょうか。



万里の長城《中国》
The Great Wall《China》

http://whc.unesco.org/en/list/438

登録種別:文化遺産
登録基準:(i) 人類の創造的天才の傑作を表現するもの;(ii) ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に監視、人類の価値の重要な交流を示すもの;(iii) 現存する、または、消滅した文化的伝統、または、文明の、唯一の、または、少なくとも稀な証拠となるもの;(iv) 人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または、景観の顕著な例;(vi) 顕著な普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または、芸術的、文学的作品と、直接に、または明白に関連するもの
登録年:1987

万里(ワンリー)の長城(チャンチョン)は、紀元前7世紀に楚の国が「方城」を築造することから始まって、明代(1368~1644)に至るまで、外敵や異民族の侵入を防御する為に、2000年以上にわたって築き続けた城壁。北方の遊牧民族の侵入を防ぐ為の防衛線としたのが秦の始皇帝(紀元前259~210年)。東は、渤海湾に臨む山海関から、西は、嘉峪関までの総延長は約8851.8km(約1万7700華里)。城壁の要所には、居庸関、黄崖関などの関所、見張り台やのろし代が置かれている。万里の長城は、現在の行政区分では、河北省、北京市、山西省、陝西省、内モンゴル自治区、寧夏回族自治区、甘粛省など17の省、自治区にまたがる。なかでも、北京市郊外の八達嶺や慕田峪からの眺望は、山の起伏に沿って上下し延々と続き雄大そのもの。このほか、金山嶺、司馬台、古北口などからの景色もすばらしい。世界的に有名な万里の長城は、その有給の歴史とスケールの大きさから中国文明の象徴そのものともいえる。月から肉眼で見える地球で唯一最大の建造物とされる。万里の長城は通称で、一般的には「長城」と呼ばれている。万里の長城の総延長は、これまで、約6350km(1万2700華里)とされてきたが、中国国家文物局と中国国家測量局が共同で、2006年から2年がかりでGPS(全地球測位システム)など最新の技術を駆使して測量した結果、約2500km長い8851.8kmであることが判明し総延長距離を確定した。
     ──『世界遺産事典 1007全物件プロフィール 2015改訂版』(シンクタンクせとうち総合研究機構)

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