2016年9月24日土曜日

自分自身をいたわるために・5



PHOTO: AC WORKS.CO.,LTD.

竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
お気に入りの一言を見つけてください。
この動画でご紹介している名言の発言者は以下のとおりです。

ヴィクトル・ユーゴー Victor-Marie Hugo

1802.02.26生~1885.05.22没
フランスの詩人、小説家、劇作家。ナポレオン軍の将軍を父にもつ。早くから自己の文学的使命に目ざめ、1822年処女詩集『オードと雑詠集 Odes et Poésies diverses』を発表。以降約60年間にわたり、ロマン派の総帥、国民的大詩人として、また一貫した共和主義者として、フランス文学史上不朽の足跡を残した。その死は国葬をもって送られ、パリ中の人が参列したという。代表作に、ロマン派の宣言と勝利を記念する戯曲『クロムウェル Cromwell』(1827)、『エルナニ Hernani』(30)、詩集『東方詩集 Les Orientales』(29)、『秋の木の葉 Les Feuilles d'automne』(31)、『静観詩集 Les Contemplations』(56)、『諸世紀の伝説 La Légende de siècles』(59~83)、小説『ノートル・ダム・ド・パリ Notre-Dame de Paris』(31)、『レ・ミゼラブル Les Misérables』(62)、『海に働く人々 Les Travailleur de la mer』(66)などがある。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

プルタルコス Plutarchus (プルターク Plutarch《英語読み》)

46~48 年頃生~ 127 年頃没
帝政ローマのギリシア⼈著述家。著作に『対⽐列伝』(英雄伝)などがある。
ボイオティアにあるカイロネイアの名⾨出⾝。アテナイで数学と⾃然哲学を学び、ギリシャ本⼟と⼩アジアのサルディス、エジプトのアレクサンドリアに赴き、カイロネイアの使節としてローマにも度々滞在した。⽣涯を故郷で過ごし、市⺠と親しく付き合い、ローマからの客をもてなしたので、家は⼤いに賑わったとされる。⼀⽅では、デルフォイ神殿の神官と交流を持ち、神託を推奨した。思想的にはアカデメイア派に属し、その他ストア派やペリパトス派の考え⽅も取り⼊れていた。
著作活動は熱⼼で、3 世紀頃に編纂されたプルタルコス著作⽬録によれば、『対⽐列伝』(英雄伝)をはじめ、227 もの書物が挙げられている。
『対⽐列伝』は1 ⼈の⼈物を記述した単独伝記4編と、古代ギリシアの⼈物と古代ローマの⼈物を対⽐した対⽐列伝22 編からなる。対⽐列伝では、アテナイの王テーセウスと王政ローマを建国したロームルス、スパルタの律法者リュクルゴスとローマの古王ヌマ、アレクサンドロス3 世(⼤王)とカエサル、などが対⽐されている。
この『対⽐列伝』は16 世紀にジャック・アミヨによる仏訳がなされ、その仏語版から17 世紀のサー・トマス・ノースが訳した英語版を参考にシェイクスピアは『ジュリアス・シーザー』、『アントニーとクレオパトラ』、『コリオレイナス』などのローマ史劇を執筆したとされる。
『倫理論集(モラリア)』は政治・宗教・哲学などについて論じた随想集であり、エッセーの起源であるとされる。のちにモンテーニュやラブレーなどのルネサンス期のフランス⽂学や、ラ・ロシュフーコーなど17、18 世紀のフランスモラリストに、⼤いなる影響があった。

ゲーテ Johann Wolfgang von Goethe

1749.08.28生~1832.03.22没
ドイツの詩人、小説家、劇作家。富裕な市民の子として生まれ、ライプチヒとシュトラスブルグの大学で法律を学んだが、ヘルダーとの出会いを契機に文学に目ざめ、シュトゥルム・ウント・ドラング運動に参加、その記念碑的な戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン Götz von Berlichingen』(1773)、小説『若きウェルテルの悩み Die Leidan des jungen Werthers』(1774)で一挙に文名を高めた。1775年以降はワイマール公国の要職を歴任しつつ、イタリア旅行や1794年以降のシラーとの交遊を糧として調和と普遍的人間性に基づくドイツ古典主義文学を確立。その生涯は、豊かな天才が健康、環境、体験に恵まれ、努力に支えられて高く伸び、大きく開花した稀有の例である。代表作、ロマン派に大きな影響を与えた教養小説『ウィルヘルム・マイスター Wilhelm Meister』(『修業時代』1795、『遍歴時代』1829)、『ファウスト Faust』(第1部1808、第2部1832)のほか、戯曲『エグモント Egmont』(1787)、『タウリスのイフィゲニー Iphigenie auf Tauris』(1787)、叙事詩『ヘルマンとドロテーア Hermann und Dorothea』(1797)、抒情詩集『ローマのエレギー Römische Elegien』(1795)、小説『親和力 Die Wahlverwandtschaften』(1809)、自伝『詩と真実 Aus meinem Leben.  Dichtung und Wahrheit』(第1~3巻1811~14、第4巻1833)、『イタリア紀行 Italiensche Reise』(1816~29)、『西東詩集 Westöstlicher Divan』(1819)などがあり、シラーとの往復書簡集や風刺詩『クセーニエン Xenien』(1796)も有名。また色彩論など自然科学の研究にも優れた業績を残した。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ルノアール Pierre Auguste Renoir

1841.02.25生~1919.12.17没
フランスの画家。仕立屋の子として生れ、4歳のとき一家とともにパリに移り、セーブル製陶工場で徒弟として働いた。1862年C.グレールのアトリエに入り、そこでC.モネ(1840~1926)、A.シスレー(1839~1899)らと交遊。64、65年サロンに出品。74年第1回印象派展に参加し、以降3回出品。81~82年イタリアへ旅行し古典絵画の影響を受けて、83年頃から厳格な線描と淡い色彩による古典様式の絵を描いた。しかし数年後再び新鮮な色彩感が現れるようになり、虹色、オレンジ、赤を主調とした人物、風景を描き、色彩画家として独自の画風を発展、大成させた。95~96年から次第に裸婦の連作が多くなり、晩年は彫刻の制作にもたずさわって、豊満な女性像を残した。生前住んだ南仏カーニュの別荘コレットは、現在ルノアール美術館となっている。主要作品『シャルパンティエ夫人とその家族たち』(1878、メトロポリタン美術館)、『浴女たち』(1918~19、オルセー美術館)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

エーリヒ・フロム Erich Fromm

1900.03.23生~1980.3.18没
ドイツ生れのアメリカの精神分析学者、社会心理学者。新フロイト派の一人。精神分析の社会学派といわれ、政治的、宗教的、経済的条件で個人の「社会的性格」が形成されると主張し、社会の健全な発展のため、精神分析法を導入することを提唱した。ナチスに追われ、フランスを経て1933年にアメリカに渡り、シカゴ精神分析研究所などの研究員をつとめ、40年アメリカに帰化。49年メキシコに移住し、以降アメリカと両国で活躍していた。51年、メキシコ国立大学教授。主著『自由からの逃走 Escape from Freedom』(1941)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

エレノア・ランバート Eleanor Lambert Berkson

エレノア・ランバート・バークソン(1903年8月10日-2003年10月7日)は、アメリカのファッションおよび広告業界の中心人物であった。
1930年代半ば、ランバートはホイットニー美術館の初代宣伝部長で、現代美術館の資金繰りを手助けした。ジャクソン・ポラック、ジェイコブ・エプスタイン、イサム・ノグチは彼女が手がけた多くの芸術家の一握りである。1940年代、ランバートは国際ベストドレッサー・リスト、コティ・ファッション評論家賞(1943)、ニューヨーク・ファッション・ウィークを設立。1959年および1967年、アメリカ国務省から依頼を受け、ロシア、ドイツ、イタリア、オーストラリア、日本、イギリス、スイスでアメリカのファッションを初めて紹介した。1965年、リンドン・ジョンソン大統領により、国際芸術基金の芸術評議員に任命された。1962年、アメリカ・ファッションデザイナー評議会(CFDA)を設立、2003年死に至るまで名誉会員であり続けた。2001年CFDAはエレノア・ランバート賞を設け、「世界のファッションに無類の貢献をし、産業への功労を認めた者」を対象としている。彼女が亡くなる数ヶ月前、ヴァニティ・フェア誌の4人の編集者に国際ベストドレッサー・リストを残した。9月に行われたニューヨーク・ファッション・ウィークに公に姿を現して間もなく、ランバートは2003年息を引き取った。100歳であった。彼女の死後間もなく、孫のモーゼス・バークソンがランバートの人生を描いたドキュメンタリー映画を完成させた。ファッション史家のジョン・A・ティファニー氏はランバートに育てられた。ランバートを「アメリカの著しい逸材であるとともに、世界の逸材でもある」と評価する筋もある、それほどファッション業界における影響力が大きかった。
  ──ウィキペディア英語版(https://en.wikipedia.org/wiki/Eleanor_Lambert)より翻訳・抜粋

アーニー・J・ゼリンスキー Ernie J. Zelinski

アーニー・J・ゼリンスキー(Ernie J. Zelinski)は、カナダの作家、コンサルタント、講演家。仕事と自由時間をクリエイティブにする方法のコンサルタントとして活躍する人物であり、多くの著書を発表し国際的なベストセラー書も生み出す。(参考文献:ウィキペディア+Amazon.co.jp)
  ──地球の名言(http://earth-words.org/archives/13273

ヘンリック・イプセン Henrik Johan Ibsen

1828.03.20生~1906.05.23没
ノルウェーの劇作家。家は裕福であったが、彼が8歳のときに破産、15歳でグリムスタの薬剤師の徒弟になった。ローマの革命家に取材した戯曲『カティリーナ Catilina』(1850)が処女作。1864年二度と故国に帰らぬつもりで外遊、『ブラン Brand』(66)でようやく名声を得た。以降『ペール・ギュント Peer Gynt』(67)、『皇帝とガリラヤ人 Kejser og Galilæer』(73)などの思想劇、次いで『人形の家 Et Dukkehjem』(79)、『幽霊 Gengangere』(81)、『民衆の敵 En Folkefiende』(82)、『野鴨 Vildanden』(84)などの社会劇によって近代劇を確立、『ロスメルスホルム Rosmersholm』(86)、『ヘッダ・ガーブラー Hedda Gabler』(90)を書いたのち、28年ぶりに故国に帰り、『建築師スールネス Bygmester Solness』(92)、『小さいエイヨルフ Lille Eyolf』(94)、『ヨハン・ガーブリエル・ボルクマン John Gabriel Borkman』(96)、最後の作『われら死者の目ざめるとき Når vi døde vågner』(99)を発表した。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

バイロン George Gordon (Noel) Byron

1788.01.22生~1824.04.19没
イギリスの詩人。ポルトガルからギリシアへの旅を扱った長詩『チャイルド・ハロルドの巡礼 Childe Harold's Pilgrimage』の1~2巻(1812)によって一挙に名声を獲得、社交界の寵児となったが、異母姉オーガスタとの醜聞のためにイギリスを追われ、1816年イタリアへ渡った。23年ギリシアの独立戦争に参加、翌年戦病死した。作品には、風刺詩『ドン・ジュアン Don Juan』(19~24)、劇詩『マンフレッド Manfred』(17)、『カイン Cain』(21)、最後の作品『ウェルナー Werner』(22)など。湧出る豊かな抒情、感傷を誘う異国情緒、奔放な情熱の物語、機知縦横の風刺など多方面にたくましい才能を発揮して、ことに大陸のロマン主義文学に大きな影響を与えた。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』


いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。

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