2016年9月25日日曜日

自分自身をいたわるために・6



PHOTO: AC WORKS.CO.,LTD.

竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
お気に入りの一言を見つけてください。
この動画でご紹介している名言の発言者は以下のとおりです。

シドニー・ガブリエル・コレット Sidonie-Gabrielle Colette

1873.01.28生~1954.08.03没
フランスの女流作家。20世紀前半の最も著名な女流作家の一人。20歳で40代の作家ウィリー(本名H. Gauthier-Villars)と結婚、夫のすすめで書いた少女時代を扱う自伝的小説『学校のクローディーヌ Claudine à l'école』以下4冊のクローディーヌ・シリーズ(1900~03)によって認められた。1906年離婚後、ミュージック・ホールの舞台に立ち、13年に再婚した。第1次世界大戦に記者として従軍、20年に五十女と17歳の若者の愛欲を描いた『シェリ Chéri』を出版、以降次々と傑作を発表。伝統的心理小説の手法を用いながら、鋭敏な感覚と洗練された感性で未知の領域を開拓した。主著『青い麦 Le Blé en herbe』(23)、『第二の女 La seconde』(29)、『牝猫 Chatte』(33)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ Lev Nikolaevich Tolstoi

1828.09.09生~1910.11.20没
ロシアの小説家。伯爵家に生れ、幼くして両親を失った。1847年カザン大学中退。故郷に帰り、農民の生活改革を試みたが失敗。51年カフカズで軍務についていた兄のもとに行き、美しい自然のなかで文学に開眼し、自伝3部作の『幼少時代 Detstvo』(1852)、『少年時代 Otrochestvo』(54)、『青年時代 Yunost'』(57)で新進作家としての地位を確立した。57年最初のヨーロッパ旅行に出、ヨーロッパ文明に対する懐疑をいだいた。62年結婚、文筆活動に専念し、二大名作『戦争と平和 Voina i mir』(63~69)『アンナ・カレーニナ Anna Karenina』(73~77)を完成した。宗教論文『懺悔 Ispoved'』(79、82加筆)や『イワンのばか Skazka ob Ivane-Durake』(85)をはじめとする民話を書き、のちに「トルストイ主義」と呼ばれた思想に忠実な活動を行い、私有財産の否定、非戦論、非暴力主義を唱えた。ほかに小説『イワン・イリイッチの死 Smert' Ivana Il'icha』(86)『クロイツェル・ソナタ Kreitserova Sonata』(91)『復活 Voskresenie』(89~99)、戯曲『闇の力 Vlast' t'my』(87)などの文学作品を書いたが、最後まで安らぎは得られず、1910年家出、リャザン=ウラル鉄道の小駅、アスターポボ(現在のレフ・トルストイ駅)の駅長官舎で没した。
  ──『ブリタニカ国際大百貨事典』

ガブリエル・ロレンハーゲン(ロレンハジウス) Gabriel Rollenhagen (Rollenhagius)

1583年3月22日マクデブルグにて出生、1619年?マクデブルグにて没。
ドイツ人でローマカトリック教徒の詩人、作家および標章製作者である。
マクデブルグの有名な説教師および教師ゲオルグ・ロレンハーゲンを父として生まれた彼は、ゲラルテンシュール教父をはじめとして、優れた教育を受けた。1602年卒業生総代としてラテン語で告別演説を行ったが、その内容は1620年出版された。急逝の直後であった。1602年ライプツィヒに進学し、1604年まで法学を学ぶが、1605年からはライデンの大学で勉学を続けた。ダニエル・ハインシウスと知り合ったことで、高名な人文主義学者であるヒューゴ・グロティウスやヨゼフ・スカリガーらと交流することになる。1606年マクデブルグに戻ったが、ライデンでの初期作品集を世に出したツケを負っていたと思われる。粗野なドイツ語で卑猥なロマンティック・コメディを多数出版したりもしたが、見事な成功を収めもした。その名声は、1611年のバロック時代の紋章を数多く扱った『Nucleus Emblematum』によるところが大きい。ほかに『Amantes amentes』(1609)もある。
  ──ウィキペディアドイツ語版(https://de.wikipedia.org/wiki/Gabriel_Rollenhagen)の内容をGoogleで英語にしたものを翻訳・抜粋

メアリー・カサット Mary Cassatt

1844.05.22生~1926.06.14没
アメリカの女性画家、版画家。ペンシルバニア美術アカデミーに学んだのち、1868年からヨーロッパ各地を旅行し、パリに定住。旅行の際、アントウェルペンでドガ(1834~1917)に会い、以降長く教えを受ける。作品の中心テーマは母子像で、様式的にはドガや日本の版画の影響が強い。絵画のほかに多くのエッチング、木版画も制作。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』
※ 著述家のメアリー・カサットは見つかりませんでした。
もしかしたら誤りかもしれませんね。

ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー Henry Wadsworth Longfellow

1807.02.27生~1882.03.24没
アメリカの詩人。ボードゥン大学卒業。同級にホーソーンがいた。その後3年間のヨーロッパ留学を経て、母校の近代語学教授(1829~35)をつとめた。1835年再度ヨーロッパに渡り、ノバーリス(1772~1801)などドイツ・ロマン派の影響を受けた。帰国後ハーバード大学教授(36~54)。その詩は感傷性、教訓性が目立つがリズムにすぐれ、特に『エバンジェリン Evangeline』(47)、『ハイアワサ The Song of Hiawatha』(55)、清教徒軍人の恋を描く『マイルズ・スタンディッシュの求婚 The Courtship of Miles Standish』(58)などの長編物語詩は広く愛読された。そのほか、詩集『夜の声 Voices of the Night』(39)、『民謡 Ballads and Other Poems』(42)、物語詩『路傍の宿物語 Tales of a Wayside Inn』(63~73)、詩劇3部作『クリスタス Christus』(72)、ダンテ『神曲』の翻訳(65~67)など多数。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

シモーヌ・ド・ボーボワール Simone de Beauvoir

1908.01.09生~1986.04.14没
フランスの女流作家、評論家。実存主義文学の代表者の一人。ブルジョアの生れで、パリ大学文学部在学中にサルトル(1905~1980)を知り、生涯にわたる関係を結ぶ。1929年教授資格を取得、パリをはじめ各地のリセ(高等中学校)で教鞭をとったが、43年以降教壇を去り、哲学、政治、社会問題など多岐にわたる著作活動を続けた。小説には『招かれた女 L'Invitée』(1943)、『他人の血 Le Sang des autres』(44)、『レ・マンダラン Les Mandarins』(54、ゴンクール賞)があり、評論には『人間について Pyrrhus et Cinéas』(44)、『多義性のモラルのために Pour une morale de l'ambigüté』(47)、浩瀚な女性論『第二の性 Deuxième Sexe』(49)、『老い La Vieillesse』(70)。ほかに、旅行記『アメリカその日その日 L'Amérique au jour le jour』(48)、『長征 La Longue Marche』(57)、回想録『娘時代 Mémoires d'une jeune fille rangée』(58)、『女ざかり La Force de l'âge』(60)、『事物の力 La Force des choses』(63)などがある。66年サルトルとともに来日した。
   ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ウィリアム・シェイクスピア William Shakespeare(劇作家)

1564.04.26生~1616.04.23没
イギリスの詩人、劇作家。公式には4月23日が誕生日とされている。裕福な商人の長男として生れ、父は一時町長に選ばれたが、まもなく没落したため、彼は土地のグラマー・スクールに通っただけで、大学に進んだ形跡はない。18歳のとき8歳年長のアン・ハサウェーと結婚、1男2女を得たが、その後の数年間については伝記的資料が皆無のため種々の憶測が行われている。おそらく20歳を過ぎてまもなくロンドンに出て劇界に入り、俳優として出発、やがて劇作に転じたものと思われる。劇作は1590年頃から開始され、最初はバラ戦争を主たる背景とする『ヘンリー6世 Henry VI』(3部作1590~92)、『リチャード3世 Richard III』(93)、笑劇に近い喜劇『じゃじゃ馬ならし The Taming of the Shrew』(94)を書いていたが、94年宮内大臣お抱え一座の幹部座員となるに及んで偉大な劇作家としての本領を発揮しはじめ、『ロミオとジュリエット Romeo and Juliet』(95)、『夏の夜の夢 A Midsummer Night's Dream』(95)、『リチャード2世 Richard II』(95)などの抒情的な作品を発表、さらに愛の喜劇のなかにシャイロックの悲劇を描いた『ベニスの商人 The Merchant of Venice』(96)、フォールスタッフの登場で有名な『ヘンリー4世 Henry IV』(2部作97)、生の歓喜のなかにも生きることのさびしさや、ときには生の倦怠さえも暗示する『お気に召すまま As You Like It』(99)、最高の喜劇『十二夜 The Twelfth Night』(1600)を書いた。続く数年間は「悲劇時代」と呼ばれ、生と死、善と悪、罪と罰、仮象と真実など人間の根本問題をテーマとした『ハムレット Hamlet』(1600)、『オセロ Othello』(04)、『リア王 King Lear』(05)、『マクベス Macbeth』(06)の四大悲劇を創作した。1608年頃から許しと和解を主題にしたいわゆるロマンス劇に転じ、『シンベリン Cymbeline』(09)、『冬の夜ばなし The Winter's Tale』(10)、単独作としては最後の『あらし The Tempest』(11)を書いた。詩としてはサウサンプトン伯に捧げた物語詩『ビーナスとアドニス Venus and Adonis』(1593)、『ルクリースの凌辱 The Rape of Lucrece』(94)、英詩では最大にして最高の『ソネット集 Sonnets』(1609)などがある。天成の詩人であった彼は無韻詩を縦横に駆使して韻文劇を創作し、その内容の深さと相まって最高の戯曲をつくり出した。その伝記には不明な部分があるため、シェークスピアの実在に疑問をいだく説(たとえばシェークスピアはF.ベーコンの筆名であるという)もあったが、現在では顧みられない。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

シモーヌ・ヴェイユ (ヴェーユ/ヴァイユ) Simone Weil
シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)(Simone Weil, 1909
年2 ⽉3 ⽇パリ、フランス- 1943 年8 ⽉24 ⽇ロンドン、イギリス)は、フランスの哲学者である。⽗はユダヤ系の医師で、数学者のアンドレ・ヴェイユは兄である。
彼⼥は第⼆次世界⼤戦中にロンドンでほぼ無名のまま客死した(享年34 歳)。戦後、残されたノートの⼀部が知⼈の編集で箴⾔集として出版されるとベストセラーになった。その後もあちこちに残されていた膨⼤な原稿・⼿紙・ノート類を知⼈たちが編集・出版するにつれてその深い思索への評価は⾼まり、何カ国語にも翻訳されるようになった。遺稿は政治思想、歴史論、神学思想、労働哲学、⼈⽣論、詩、未完の戯曲、⽇記、⼿紙など多岐に渡る。

セネカ Lucius Annaeus Seneca
紀元前4年頃生~紀元後65年没
ローマ後期ストア派の哲学者。大セネカの息子。ローマでストア派のアッタルスに学ぶ。弁護士として成功したが一時ローマを追われ、のち皇帝ネロの師傅、執政官となる。その後ピーソの謀反に加担した嫌疑を受け自殺に追込まれた。彼はピタゴラス、プラトン、エピクロス、キュニコス派に多くの点で影響を受けつつ、ストア主義の正統を守って哲学を理性的存在である人間の唯一の目的、幸福、善としての徳の修練に結びつけ、倫理生活の根本原則は自然に従って生きることにあるとした。また、倫理的な神観念や神の意志である世界法則と人間性の同質性を強調し、ストア主義における理想主義的宗教的側面の形成に寄与した。それゆえ彼の思想はキリスト教護教家たちによっても福音書の倫理説などと比較研究されている。『道徳的書簡集 Epistulae morales』107中の詩の一句「導き給え、おお高き天空の支配者なる父よ、いずこなりと御心のままに。進みて我は従いまつらむ」にはストア派の学説の結末を形づくる賢者の像が象徴されているといえよう。著書は7巻の『自然論 Naturales quaestiones』など多数。ほかに悲劇9編がある。文体は弁論調で警句に富み、名文として後世まで親しまれた。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ニコラ・ボワロー Nicolas Boileau-Despréaux

1636.11.01生~1711.03.13没
フランスの詩人、批評家。『詩法 L'Art poétique』(1674)で、自然、理性、古代、芸術的完成の4つに対する崇拝を唱え、フランス文学の黄金時代を築いた古典主義文学の美学を不動のものにするとともに、ヨーロッパ諸国の文学にも影響を及ぼした。ほかに『風刺詩集 Satires』(66)、『書簡詩集 Épîtres』(69~77)がある。モリエール、ラシーヌ、ラ・フォンテーヌのよき忠告者としての功績も大きい。「新旧論争」では古代派の先頭に立ち、『ロンギノス考 Réflexions sur Longin』(94)を残した。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』


いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。

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