2016年9月28日水曜日

自分自身をいたわるために・11



PHOTO: AC WORKS.CO.,LTD.

竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
お気に入りの一言を見つけてください。
この動画でご紹介している名言の発言者は以下のとおりです。

セオドア・アイザック・ルービン Theodore Isaac Rubin

1923~
医師、作家、アメリカ精神分析学研究所所長。大学卒業後、アメリカ精神分析学研究所で学ぶ、のち所長となる。この間、精神科医として診療するかたわら、『Ladies' Home Journal』や『McCalls'』などへコラム執筆やテレビ出演などで活躍。精神障害に光をあてるフィクション、ノンフィクションと多数執筆。著書に『Compassion and Self-Hate』『Reconcilation』『リアル・ラブ』、短編集に『物語に閉じこもる少年たち』などがある。
  ──『世界外国人名録2004』

エウリピデス Eurīpidēs

紀元前485年頃生~紀元前406年没
ギリシア三大悲劇詩人の一人。ソフィストと自然哲学の影響を受け、伝統的悲劇を合理主義精神によって改革して、神話の世界を日常の世界にまで引降ろし、悲劇を人間情緒の世界と化した。競演における優勝は紀元前441年以来5回20編。現存作品はサチュロス劇1編と偽作1編とを含めて19編。主要作品『アルケスチス Alkēstis』(紀元前438上演)、『メディア Mēdeia』(紀元前431)、『ヒッポリュトス Hippolytos』(紀元前428)、『アンドロマケ Andromachē』、『ヘカベ Hekabē』、『ヘラクレス Hēraklēs』、『トロイアの女たち Trōiades』(紀元前415)、『救いを求める女たち Hiketides』、『エレクトラ Ēlektra』、『ヘレネ Helenē』(紀元前412)、『タウリスのイフィゲネイア Iphigeneia hē en Taurois』、『イオン Iōn』、『フェニキアの女たち Phoinissai』、『オレステス Orestēs』(紀元前408)、『バッコスの信女 Bakchai』(紀元前405)、『アウリスのイフィゲネイア Iphigeneia hē en Aulidi』(紀元前405)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ソフォクレス Sophoklēs

紀元前496/495年生~紀元前406年没
ギリシア三大悲劇詩人の一人。俳優を2人から3人に、コロスを12人から15人にふやし、背景に絵を使い、3部作形式をやめて1編ずつ独立させ、主役の性格と演技を重視するなど、悲劇に大改革を加えた。紀元前468年以来およそ120編作り、競演でも18~24回優勝。政治にも積極的に関与して将軍に選ばれたほか、たびたび要職についた。現存作品は『アイアス Aias』、『アンチゴネ Antigonē』(紀元前442上演)、『オイディプス王 Oidipus Tyrannos』(紀元前440)、『トラキニアイ Trāchīniai』、『エレクトラ Ēlektra』(紀元前418)、『フィロクテテス Philoktētēs』(紀元前409)、『コロノスのオイディプス Oidipous epi Kolōnōi』(遺作、紀元前401)。ほかに、サチュロス劇『イクネウタイ Ichneutai』の大断片もある。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ジャン・ド・ラ・ブリュイエール Jean de la Bruyere

ジャン・ド・ラ・ブリュイエール(仏: Jean de La Bruyère, 1645年8月16/17日 - 1696年5月10日/11日)は、フランスのモラリストであり作家である。
17世紀のフランスの宮廷人たちを描き、人生を深く洞察した著書『カラクテール』(フランス語: Les Caractères ou les Mœurs de ce siècle)(和訳: 『人さまざま』)(1688年)によって知られる。

エピクテトス Epiktētos

50頃生~?
ストア派の哲学者。初めネロの重臣の奴隷、解放されてからドミチアヌス帝による哲学者追放までローマで哲学を講じ、のちニコポリスにおもむく。弟子アリアノスによる『談話集』と『提要』があり、マルクス・アウレリウスらに影響を与えた。その学説は初期ストア派にほぼ同じで、さまざなまな専門的知識や技術、神の摂理、現世の苦痛に対する無関心と、人間として必要な哲学の意義を説き、人みな神の子という立場から博愛主義を唱えた。その哲学は意志の哲学であり、自己の支配能力が及ぶ意志的活動と、その権能外にある社会的なものとの区別を心得て、一切の苦悩から自由となり心の内に平静を獲得することをすすめている。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

スタンダール Stendhal

1783.01.23生~1842.03.23没
フランスの小説家。本名Marie-Henri Beyle。ナポレオンの第2回イタリア遠征に参加してイタリアの魅力を知る。1802年いったん除隊、1812年再びロシア遠征に加わる。ナポレオンの没落後イタリアに住み、芸術論や『恋愛論 De l'amour』(1822)を書く。1821年パリに戻り、小説『赤と黒 Le Rouge et le Noir』(1830)などを発表。七月革命後の1831年にイタリアのチビタベッキアの領事に任命され、自伝『エゴチスムの回想 Souvenirs d'égotisme』(1892刊)および『アンリ・ブリュラールの生涯 Vie de Henri Brulard』(1890刊)を書き、休暇中に7週間で傑作『パルムの僧院 La Chartreuse de Parme』(1839)を書き上げた。意志と情熱に満ちた人物たちの若々しい行動をむだのない文体で綴った彼の作品は、近代小説の傑作とされるが、生前には理解されなかった。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ジョン・ミルトン John Milton

1608.12.09生~1674.11.08没
イギリスの詩人。ケンブリッジ大学に学ぶ。年少にして詩人を志し、『キリスト降誕の朝にあたりて On the Morning of Christ's Nativity』(1629)、『快活な人 L'Allegro』(31)、『沈思の人 Il Penseroso』(31)、仮面劇『コーマス Comus』(34)、『リシダス Lycidas』(37)などの名作を書いた。1642年内乱勃発後の約20年間は議会派の論客として活躍、言論の自由を論じた『アレオパジティカ Areopagitica』(44)など多くの政治的、宗教的パンフレットを執筆、また不幸な結婚の経験に基づき『離婚論 The Doctrine and Discipline of Divorce』(43)を著わした。49年以後共和政府のラテン語秘書として活躍したが、52年に失明。王政復古(60)後は逆境におかれたが、詩作に精進し、イギリス文学史上最大の叙事詩『失楽園 Paradise Lost』(67)をはじめ『復楽園 Paradise Regained』、『闘士サムソン Samson Agonistes』(ともに71)を書き、シェークスピアに次ぐイギリス最高の詩人の地位を確立した。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』


いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。

自分自身をいたわるために・10



PHOTO: AC WORKS.CO.,LTD.

竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
お気に入りの一言を見つけてください。
この動画でご紹介している名言の発言者は以下のとおりです。

マルセル・プルースト Marcel Proust(作家)

1871.07.10生~1922.11.18没
フランスの小説家。父は医学博士、母はユダヤ系。幼年時代母と祖母に溺愛され、病的ともいえる鋭敏な感受性を示した。早くから上流社交界に出入りする一方、文学に熱中し、優雅な小品を雑誌に発表、ラスキンの芸術哲学に傾倒した。1903、05年に相次いで両親を失い、持病の喘息が悪化したことを契機に、コルク張りの部屋にほとんどこもりきりになって、7巻15冊から成る大河小説『失われた時を求めて À la Recherche du Temps Perdu』(1913~27)を著わした。この作品は、人間の内面の「意識の流れ」を綿密に追うことにより従来の小説概念を大きく変革し、20世紀フランス文学最高の傑作といわれている。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

アラン Alain

1868.03.03生~1951.06.02没
フランスの哲学者。本名Émile Auguste Chartier。各地の高校教授を歴任し、ルーアンでプロポproposと題する短文を新聞に毎日寄稿し、これがやがて彼の著作の様式の柱となった。やがてパリのアンリ4世高校教授となり、第1次世界大戦を予告し、開戦とともに一兵卒として従軍、戦場で『精神と情念に関する81章 Quatre-vingt-un chapitres sur l'esprit et les passions』(1917)、『芸術論 Système des beaux-arts』(20)を書いた。J.ラニョーの影響を受け、デカルトやスピノザに傾倒する合理主義者であるが、独断的体系を拒み、短文をもって人々の思索を促すモラリストであった。彼のいう理性は単に哲学の原理にとどまらず、生全体の根底となる良識であった。彼の著作は広い領域にわたり、哲学者のみならず文学者にも深い影響を残している。ほかの著作、『幸福論 Propos sur le bonheur』(28)、『イデー Idéés』(32)、『わが思索のあと Histoire de mes pensées』(36)など。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ユング Carl Gustav Jung

1875.07.26生~1961.06.06没
スイスの心理学者、精神分析学者。バーゼル大学で医学を修めたのちパリのピエール・M.F.ジャネのもとに留学。チューリヒ大学を経て1943年バーゼル大学教授。1948年チューリヒにユング研究所を設立。初め心霊現象などのオカルト研究に興味をもつ一方、ジグムンド・フロイト学説の熱心な支持者であったが、その後、A.メーダーと協同して、リビドーおよび無意識の概念について新しい展開を試み、分析的心理学を創始した。また、精神障害者の無意識を発見するために言語連想テストをつくり、コンプレックスの概念を考案した。主著『変容の象徴 Wandlungen und Symbole der Libido』(1912、改訂版Symbole der Wandlung 1952)、『タイプ論 Psychologische Typen』(1921)、『分析心理学への貢献 Contributions to Analytical Psychology』(1928)、『パーソナリティの統合 The Integration of the Personality』(1940)、『心理学と錬金術 Psychologie und Alchemie』(1944)、『空飛ぶ円盤 Ein Moderner Mythus』(1958)、『無意識の心理 Über die Psychologie des Unbewussten』(1960)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

アレクサンドル・デュマ Alexandre (Devy de la Paileterie) Dumas

1802.07.24生~1870.12.05没
フランスの小説家、翻訳家。デュマ・ペール(父)と呼ばれる。膨大な作品を書いたが、小説よりむしろ戯曲によって、ロマン派を代表する作家となった。小説はほとんどが共作者の助力を得たもので、なかでもオーギュスト・マケの力が大きい。『三銃士 Les Trois Mousquetaires』(1844)、『モンテ=クリスト伯 Le Comte de Monte-Christo』(44~45)、『黒いチューリップ La Tulipe noire』(50)などの歴史小説によって世界中に親しまれている。戯曲では、通俗的ともいえる筋書を、情熱的で動きのある大団円に導く舞台感覚に恵まれている。なかでも『アンリ3世とその宮廷 Henri III et sa cour』(29)は大成功を収めた。ほかに『アントニー Antony』(31)など。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ラルフ・ウォルド(ワルド)・エマーソン Ralph Waldo Emerson

ラルフ・ウォルドー(ワルド)・エマーソン(Ralph Waldo Emerson [rælf ˈwɑːldoʊ ˈemərsən]、1803 年5 ⽉25 ⽇- 1882 年4 ⽉27 ⽇)は、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩⼈、エッセイスト。無教会主義の先導者。
Waldo はウォルドウ、ウォルド、ワルド、Emersonはエマソン、エマスンなどとも表記される(英語では、Emerson は第1 ⾳節にアクセントがある)。
アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに⽣まれる。18 歳でハーバード⼤学を卒業し21 歳までボストンで教鞭をとる。その後ハーバード神学校に⼊学し、伝道資格を取得し、牧師になる。⾃由信仰のため教会を追われ渡欧、ワーズワース、カーライルらと交わる。帰国後は個⼈主義を唱え、アメリカの⽂化の独⾃性を主張した。
エマーソンは次第に当時の宗教的社会的信念から離れ、1836 年の評論'Nature' において、超越主義哲学を世に打ち出した。続いて草分け的な仕事として1837 年に'The American Scholar' と題した演説を⾏い、オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアは、アメリカの「知的独⽴宣⾔」であると評した。
エマーソン主要な評論のほとんどを、まず講演⽤に書いてから出版⽤に改めた。最初の⼆つの評論集'Essays: First Series' と'Essays: Second Series' は、それぞれ1841 年と1844 年に出版された。それらは'Self-Reliance'、'The Over-Soule'、'Circles'、'The Poet'、'Experience' が含み、彼の思想の核⼼である。'Nature' とこれらの評論によって、1830 年代半ばから1840 年代半ばにかけての10 年間は、エマーソンにとって最も実り多い時期となった。
彼の評論は後の思想家、著述家、詩⼈に⼤きな影響を与えた。エマーソンは、⾃⾝の中⼼教義を⼀⾔にすると、「個⼈の無限性」であると語った。エマーソンはまた、共に超越主義者であるヘンリー・デイヴィッド・ソローの師であり友であることが有名である。

アンソニー・トロコップ

※ おそらくアンソニー・トロロープ Anthony Trollopeの間違いだと思います。
動画はそのまま「アンソニー・トロコップ」としていますが、ここでは「アンソニー・トロロープ Anthony Trollope」の概略を記しています。

アンソニー・トロロープ Anthony Trollope

1815.04.24生~1882.12.06没
イギリスの小説家。ロンドンに生まれ極貧の家庭に育つ。郵便局に勤務しながら35年間に60巻の長編小説を書き、その間1日も公務を怠らなかったという精力家。その後西インド、北米、豪州、南アフリカに旅行し、それぞれの旅行記を発表。小説は健全な娯楽読物として非常な人気を博した。代表作『養老院長 Warden』(1855)、『バーチェスターの塔 Barchester Tower』(1857)、『医師ソーン Dr. Thorne』(1858)等。
  ──『新版・世界人名辞典 西洋編』

サマセット・モーム William Somerset Maugham

1874.01.25生~1965.12.16没
イギリスの小説家、劇作家。10歳のとき孤児となり、叔父の牧師館に引取られた。ドイツやフランスに遊学ののち、ロンドンで医学を学んだが開業せず、自然主義的な小説『ランベスのライザ Liza of Lambeth』(1897)で作家生活に入った。第1次世界大戦には軍医として従軍、のちに諜報活動に転じ、戦争末期には革命直後のソ連をたずねた。大衆性を重んじる多作家であるが、代表作は自伝的小説『人間の絆 Of Human Bondage』(1915)。ほかに『月と六ペンス The Moon and Sixpence』(19)、『お菓子とビール Cakes and Ale』(30)、『剃刀の刃 The Razor's Edge』(44)、短編集『木の葉のそよぎ The Trembling of a Leaf』(21)、戯曲『ひとめぐり The Circle』(21)、『おえら方 Our Betters』(23)などがある。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

孔子 Confucius(思想家)

紀元前551生~紀元前479没
中国、春秋時代の学者、思想家。儒教の祖。名は丘。字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。諡(いみな)は至聖文宣王。先祖は公族であったが家はきまめて貧しく、魯に使えて大司寇となったが権力者と衝突し、56歳から十余年間魯を去って諸国を歴遊し、諸侯に道徳的政治の実行を説いたが用いられず、晩年は魯で弟子の教育と著述に専念し、『春秋』やその他儒家の経典を著したと伝えられる。『論語』は彼とその弟子との言行録である。堯、舜、文王、武王、周公旦らを尊崇し、古来の思想を大成し、為政者の特によって民衆を教化する徳治主義を根幹とし、周の遺制たる礼楽制度による周への復古を説いた。その教えは、儒教として中国思想の根幹となり、後世に大きな影響を及ぼした。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』


いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。

2016年9月27日火曜日

自分自身をいたわるために・8


PHOTO: AC WORKS.CO.,LTD.

竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
お気に入りの一言を見つけてください。
この動画でご紹介している名言の発言者は以下のとおりです。

フリーチェ Vladimir Maksimovich Friche

1870.10.27生~1929.09.04没
ロシアの評論家。芸術を社会機構の法則から解明しようとする芸術社会学を主張。主著『ヨーロッパの文学発達史 Ocherk razvitiya zapadnykh literatur』(1906)、『芸術社会学 Sotsiologiya iskusstva』(26)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ジェームズ・アレン James Lane Allen

1849.12.21生~1925.02.18没
アメリカの作家。故郷ケンタッキー州を夢の世界としてロマン的な筆致で描いた。代表作『目に見えぬ聖歌隊 The Choir Invisible』(1897)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ショーペンハウエル Arthur Schopenhauer

1788.02.22生~1860.09.21没
ドイツの哲学者。厭世思想の代表者。父は銀行家、母は小説家で、幼時より父に伴われてイギリス、フランス、スイス、オーストリアを旅行した。父の死後、1809年ゲッティンゲン大学に入学、11~13年ベルリン大学でフィヒテの講義を聞いた。14年母とけんか別れをし、以後、終生、お互いに会おうとしなかった。20年ベルリン大学講師となったが、ベルリンの哲学界はヘーゲルの支配下にあり、まもなく辞任、以後、在野の学者として、22~31年イタリア、ミュンヘン、ベルリンに住んだのち、31年以降フランクフルトアムマインに定住、また生涯、独身を通した。彼はカントの思想から多くをくみ、みずからカントの後継者をもって任じたが、生前は不遇で、51年『付録と補遺 Parerga und Paralipomena』でようやく世間の注目を集めた。しかし19世紀末のヨーロッパにおいて、彼の主意説と、東洋ことにインドの仏教思想と相通じる独特の厭世観とは広く顧みられるにいたり、ニーチェ、ワーグナーらに大きな影響を与えた。1911年ショーペンハウアー協会が設立され、翌年から年報が刊行されている。主著『意志と表象としての世界 Die Welt als Wille und Vorstellung』(1819)、『自然における意志について Über den Willen in der Natur』(36)など。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

モーリス・センダック Maurice Bernard Sendak

モーリス・センダック(Maurice Sendak, 1928年6月10日- 2012年5月8日)は、アメリカ合衆国の絵本作家。世界中で約2000 万部売れた『かいじゅうたちのいるところ』をはじめ、80 冊を超える作品を発表し、現代絵本界を代表する存在である。このほか、アニメーション映画や舞台美術にもとりくんでいる。
アメリカの絵本作家、イラストレーター。ポーランドからの移民ユダヤ人の子として生まれる。アート・スチューデンツ・リーグの夜間部でグラフィックアートを学んだ後、絵本作家ウィリアム・ワイスガードとの出会いがきっかけとなり、独学で1950年頃から絵本を描き始める。52年『あなはほるもの おっこちるとこ』のイラストレーションを手がけて成功をおさめ、63年自作絵本『かいじゅうたちのいるところ』で絵本作家として不動の地位を築く。作品はほかに『まよなかのだいどころ』(70)、『まどのそとのまたむこう』(81)など。
  ──『現代外国人名録2004』

ロマン・ロラン Romain Rolland

1866.01.29生~1944.12.30没
フランスの小説家、劇作家。エコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)に学ぶ。民衆劇の理想を掲げて『7月14日 Le Quatorze-Juillet』(1902)などの歴史劇を書いたのち、『ベートーベンの生涯 Vie de Beethoven』(03)などの理想を追求してやまぬ天才たちの伝記を発表、ある音楽化の生涯を描く大河小説『ジャン=クリストフ Jean-Christophe』(04~12)によって世界的な名声を得た。ドイツ文化に深い理解を示し、第1次世界大戦に際しては、国際主義の立場からフランス、ドイツ両国の偏狭な愛国主義を批判する『戦いを超えて Au-dessus de la mêlée』(15)を発表、波紋を投げた。ほかに、ラブレー的な闊達さを示す小説『コラ・ブルニョン Colas Breugnon』(19)、大作『魅せられたる魂 L'Ȃme enchantée』(7巻、22~23)などがある。1915年ノーベル文学賞受賞。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ダライ・ラマ Dalai Lama

※ おそらく13世か14世のどちらかだと思うんですが、特定はできませんでした。
両方の概略を記しておきます。
ダライ・ラマ13 世(1876 年2 ⽉12 ⽇- 1933 年12⽉17 ⽇)は、第13 代のダライ・ラマ。法名をトゥプテン・ギャツォと⾔う。
ダライ・ラマ14 世(1935 年7 ⽉6 ⽇(チベット暦5 ⽉6 ⽇)- 、在位1940 年- )は、第14 代のダライ・ラマ である。法名はテンジン・ギャツォ(ワイリー⽅式:Bstan-'dzin Rgya-mtsho)。
1935 年、アムド地⽅(現在の⻘海省)の農家に⽣まれ、幼名をラモ・トンドゥプといった。4 歳の時にダライ・ラマ14 世として認定され、1940 年に即位、1951 年までチベットの君主の座に就いていたが、1959 年に中華⼈⺠共和国からの侵略と⼈権侵害⾏為に反発してインドへ亡命して政治難⺠となり、インドのダラムサラに樹⽴された中央チベット⾏政府(現「チベット⼈⺠機構」、通称「チベット亡命政府」)においてチベットの国家元⾸を務めている。亡命後は、法的には領する国⼟をもたない亡命政権の⻑という地位にありながら、世界中にちらばるチベット⺠族に対して政教両⾯において指導的⽴場にある⼈物と⽬されている。また、欧⽶でもチベット仏教に関⼼のある⼈や複数の著名⼈の⽀持を得、ノーベル平和賞を受賞したことでその国際的影響⼒はさらなる広がりを⾒せており、中国は別として世界的にはチベットの政治と宗教を象徴する⼈物とみなされるようになった。2011 年には、⾃⾝の政治的権限を委譲したいという意向を表明し、政府の⻑から引退することになった。これを承けた亡命チベット⼈憲章改定案では「チベット国⺠の守護者にして保護者であり、チベット⼈のアイデンティティと統合の象徴である」と規定され、ダライ・ラマがチベットの政教両⾯の権威者の座に即くというダライ・ラマ5 世以来の伝統を終わらせることになった。
世界的に著名な仏教指導者の⼀⼈であり、チベット仏教のゲルク派において最⾼位の仏教博⼠号(ゲシェ・ラランパ)を持つ僧侶である。歴史上のダライ・ラマはゲルク派の正式な⻑ではなく、ゲルク派の教勢が伸⻑して他派との摩擦が⽣じた時代に事実上の最⾼指導者となった学僧ゲンドゥンギャムツォ、そしてその転⽣者に認定されたスーナムギャムツォに始まる、ゲルク派の統合の象徴とされた転⽣系譜であったが、1642 年以降(ダライラマ五世の時代)、モンゴルなどを含むチベット仏教圏に影響⼒をもつ宗教的権威とチベットを統べる政治的権威とを兼ね備えた地位となった。⼀⽅、現在のダライ・ラマである14 世は亡命後にチベット⼈全体の政教両⾯の指導者とみなされるようになったが、この事態はそれまでのダライ・ラマとは異なり、ある種の政治的事情が背景にあるという意⾒もある。また、本⼈は「⾃分は⼀介の⽐丘にすぎない」と語ることが多い。世俗的な称号としては、パリ名誉市⺠、名誉博⼠(ニューヨーク州⽴⼤学バッファロー校)などがある。

スタンダール Stendhal

1783.01.23生~1842.03.23没
フランスの小説家。本名Marie-Henri Beyle。ナポレオンの第2回イタリア遠征に参加してイタリアの魅力を知る。1802年いったん除隊、1812年再びロシア遠征に加わる。ナポレオンの没落後イタリアに住み、芸術論や『恋愛論 De l'amour』(1822)を書く。1821年パリに戻り、小説『赤と黒 Le Rouge et le Noir』(1830)などを発表。七月革命後の1831年にイタリアのチビタベッキアの領事に任命され、自伝『エゴチスムの回想 Souvenirs d'égotisme』(1892刊)および『アンリ・ブリュラールの生涯 Vie de Henri Brulard』(1890刊)を書き、休暇中に7週間で傑作『パルムの僧院 La Chartreuse de Parme』(1839)を書き上げた。意志と情熱に満ちた人物たちの若々しい行動をむだのない文体で綴った彼の作品は、近代小説の傑作とされるが、生前には理解されなかった。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ヘレン・ガーリー・ブラウン Helen Gurley Brown

1922.02.18~2012.08.13
アメリカ・アーカンソー州出身の作家、編集者。約32年間にわたり雑誌「COSMOPOLITAN(コスモポリタン)」の編集長を務めた人物であり、文芸中心の家庭向け総合雑誌だった同誌をファッション雑誌に方向転換し、世界100カ国以上の国・地域に流通する人気雑誌にまで育て上げた。(参考文献:ウィキペディア+Amazon.co.jp)
  ──地球の名言(http://earth-words.org/archives/4925)


いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。



2016年9月26日月曜日

自分自身をいたわるために・7



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竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
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ヘンリー・デイヴィッド・ソロー Henry David Thoreau

1817.07.12生~1862.05.06没
アメリカの随筆家、詩人。ハーバード大学卒業後、エマソンを中心とする「超絶クラブ」の一員となり、機関誌『ダイアル』に寄稿する一方、1845~47年ウォールデン湖畔に小屋を建て、ほとんど自給自足の生活をした。この実験的生活の記録が『ウォールデン──森の生活 Walden, or Life in the Woods』(1854)で、超絶主義の主張の実践として、またエコロジー思想の先駆として後世に大きな影響を及ぼした。生前に出版した著書はこのほか『コンコード川とメリマック川の一週間 A Week on the Concord and Merrimack Rivers』(49)だけであったが、死後、1906年に刊行された全集は日記を中心に20巻を数え、ほかに『全詩集 Collected Poems of Henry Thoreau』(1943)、『書簡集 The Correspondence of Henry David Thoreau』(58)もある。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

アイザック・ディネセン Isak Dinesen (ブリクセン Karen Blixen)

1885.04.17生~1962.09.01没
デンマークの女流作家。イギリス、アメリカではIsak Dinesenの名で知られる。ディネセンは旧姓。父は軍人で作家。いとこのブリクセン男爵と結婚、美貌と才気で社交界の花形となったが、1914年ケニアに渡り、夫とも別れて山地で久しくコーヒー園を経営、それに失敗してから作家として立った。英語で書いた『7つのゴシック風物語 Seven Gothic Tales』(1934)が、怪異な題材と高踏的な香り高い文体で、たちまち彼女を謎の作家として有名にした。ほかに『アフリカから Out of Africa』(37)、『冬の物語 Winter's Tales』(42)、『草の上の影 Skygger på Græsset』(60)など。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ Lev Nikolaevich Tolstoi

1828.09.09生~1910.11.20没
ロシアの小説家。伯爵家に生れ、幼くして両親を失った。1847年カザン大学中退。故郷に帰り、農民の生活改革を試みたが失敗。51年カフカズで軍務についていた兄のもとに行き、美しい自然のなかで文学に開眼し、自伝3部作の『幼少時代 Detstvo』(1852)、『少年時代 Otrochestvo』(54)、『青年時代 Yunost'』(57)で新進作家としての地位を確立した。57年最初のヨーロッパ旅行に出、ヨーロッパ文明に対する懐疑をいだいた。62年結婚、文筆活動に専念し、二大名作『戦争と平和 Voina i mir』(63~69)『アンナ・カレーニナ Anna Karenina』(73~77)を完成した。宗教論文『懺悔 Ispoved'』(79、82加筆)や『イワンのばか Skazka ob Ivane-Durake』(85)をはじめとする民話を書き、のちに「トルストイ主義」と呼ばれた思想に忠実な活動を行い、私有財産の否定、非戦論、非暴力主義を唱えた。ほかに小説『イワン・イリイッチの死 Smert' Ivana Il'icha』(86)『クロイツェル・ソナタ Kreitserova Sonata』(91)『復活 Voskresenie』(89~99)、戯曲『闇の力 Vlast' t'my』(87)などの文学作品を書いたが、最後まで安らぎは得られず、1910年家出、リャザン=ウラル鉄道の小駅、アスターポボ(現在のレフ・トルストイ駅)の駅長官舎で没した。
  ──『ブリタニカ国際大百貨事典』

スティーブンソン Robert Louis Stevenson

イギリスの小説家、詩人、随筆家。エディンバラ大学卒業。若くして肺を病み、転地のため旅を重ね、1890年以後南太平洋のサモアに定住。旅行記に『内地舟行 An Inland Voyage』(1878)、『ろばを連れて Travels with a Donkey in the Cevennes』(79)があり、随筆では『若き人々のために Virginibus Puerisque』(81)が有名。小説には軽妙な短編集『新アラビアン・ナイト New Arabian Nights』(82)、冒険物語『宝島 Treasure Island』(83)、怪奇な寓話『ジキル博士とハイド氏 The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde』(86)などがある。童謡集『子供のうたの花園 A Child's Garden of Verses』(85)は彼の詩才を示し、書簡集にも魅力ある人柄がよく表われている。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ジョージ・ハーバート George Herbert

1593.04.03生~1633.03.01没
イギリスの詩人、聖職者。ハーバード・オブ・チャーベリーの弟。ケンブリッジ大学出身。名門出の俊英で、宮廷での活躍を期待されたが、「田舎司祭」として静かな生涯を終えた。死の直前友人ニコラス・フェラーに送って出版か焼却かをまかせた詩集『聖堂 The Temple』(1663)によって、宗教的形而上詩人としての不動の地歩を占めている。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

シラー Johann Christoph Friedrich Schiller

1759.11.10生~1805.05.09没
ドイツの劇作家、詩人。軍医の子として生れ、君主の命により軍人学校で法律や医学を学んだが、「シュトゥルム・ウント・ドラング」の吹荒れるなかで戯曲『群盗 Die Räuber』(1781)を執筆、マンハイムでの初演(82)の成功を機に、劇作家としてはなばなしい出発をとげた。以後各地を転々としつつ戯曲、思想詩、歴史評論などを次々に発表し文名を高めた。1789年からイェナ大学で歴史を講じ、99年末からはワイマールに居住。94年から没年まで続いたゲーテとの交友はドイツ古典主義となって結実した。シラーはゲーテとは対照的な資質をもち、人類の理想への情熱に燃えて短い生涯を激しく生抜いた。おもな戯曲に『たくらみと恋 Kabale und Liebe』(84)、『ドン・カルロス Don Carlos』(87)、3部作『ワレンシュタイン Wallenstein』(98~99)、『マリア・スチュアルト Maria Stuart』(1800)、『オルレアンの乙女 Die Jungfrau von Orleans』(01)、『ウィルヘルム・テル Wilhelm Tell』(04)など。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

スティーヴ・バウマン

※ 残念ながら、この人に関しては概略を見つけることはできませんでした。
引用句から検索しても、考えられるスペルで検索しても、だめでした。
ご存知の方、ご連絡ください。

アレグザンダー・ポープ Alexander Pope

1688.05.21生~1744.05.30没
イギリスの詩人、批評家。ドライデンと並ぶイギリス古典主義文学の代表的詩人。カトリックの富裕な家に生れたが、病気のため発育が著しく阻害された。伝統的な主題を完璧な技巧で処理して、田園詩、教訓詩、書簡詩、英雄詩などの形式を自由に駆使した。最も得意とする風刺詩では『愚人列伝 The Dunciad』(1728)が特に有名である。また当時の理神論に基づく哲学詩『人間論 An Essay on Man』(33~34)はこの時代特有の作品として注目すべきもの。ホメロスの翻訳(15~26)により大金を得て、テムズ河畔トウィックナムに広大な館を構え、文学者の経済的独立を達成した顕著な一例となった。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ウィリアム・ジェームズ William James

1842.01.11生~1910.08.26没
アメリカの哲学者、心理学者。いわゆるプラグマティズムの指導者。小説家H.ジェームズ(1843~1916)の兄。1861年ハーバード大学理学部へ入学、のち同大学の医学部へ移籍。67~68年ドイツに留学し、フランスの哲学者C.ルヌービエ(1815~1903)などの影響を受け、心理学、哲学に心をひかれた。69年卒業、学位を得たが開業せず、療養と読書に過した。72年ハーバード大学生理学講師。のち心理学に転じ、伝統的な思考の学としてではなく生理心理学を講じ、実験心理学に大きな貢献をした。また、ドイツの心理学者C.シュトゥンプ(1848~1936)を高く評価。さらに宗教、倫理現象の研究に進み、その後哲学の研究に入った。その立場は根本的経験論に基づく。そのほか、82年頃から心霊学に興味をもち、アメリカ心霊研究協会の初代会長をつとめた。主著『心理学原理 The Principles of Psychology』(1890)、『信ずる意志 The Will to Believe and Other Essays in Popular Philosophy』(97)、『宗教的経験の諸相 The Varieties of Religious Experience』(1901~02)、『根本経験論 Essays in Radical Empiricism』(12)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』


いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。

2016年9月25日日曜日

自分自身をいたわるために・6



PHOTO: AC WORKS.CO.,LTD.

竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
お気に入りの一言を見つけてください。
この動画でご紹介している名言の発言者は以下のとおりです。

シドニー・ガブリエル・コレット Sidonie-Gabrielle Colette

1873.01.28生~1954.08.03没
フランスの女流作家。20世紀前半の最も著名な女流作家の一人。20歳で40代の作家ウィリー(本名H. Gauthier-Villars)と結婚、夫のすすめで書いた少女時代を扱う自伝的小説『学校のクローディーヌ Claudine à l'école』以下4冊のクローディーヌ・シリーズ(1900~03)によって認められた。1906年離婚後、ミュージック・ホールの舞台に立ち、13年に再婚した。第1次世界大戦に記者として従軍、20年に五十女と17歳の若者の愛欲を描いた『シェリ Chéri』を出版、以降次々と傑作を発表。伝統的心理小説の手法を用いながら、鋭敏な感覚と洗練された感性で未知の領域を開拓した。主著『青い麦 Le Blé en herbe』(23)、『第二の女 La seconde』(29)、『牝猫 Chatte』(33)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ Lev Nikolaevich Tolstoi

1828.09.09生~1910.11.20没
ロシアの小説家。伯爵家に生れ、幼くして両親を失った。1847年カザン大学中退。故郷に帰り、農民の生活改革を試みたが失敗。51年カフカズで軍務についていた兄のもとに行き、美しい自然のなかで文学に開眼し、自伝3部作の『幼少時代 Detstvo』(1852)、『少年時代 Otrochestvo』(54)、『青年時代 Yunost'』(57)で新進作家としての地位を確立した。57年最初のヨーロッパ旅行に出、ヨーロッパ文明に対する懐疑をいだいた。62年結婚、文筆活動に専念し、二大名作『戦争と平和 Voina i mir』(63~69)『アンナ・カレーニナ Anna Karenina』(73~77)を完成した。宗教論文『懺悔 Ispoved'』(79、82加筆)や『イワンのばか Skazka ob Ivane-Durake』(85)をはじめとする民話を書き、のちに「トルストイ主義」と呼ばれた思想に忠実な活動を行い、私有財産の否定、非戦論、非暴力主義を唱えた。ほかに小説『イワン・イリイッチの死 Smert' Ivana Il'icha』(86)『クロイツェル・ソナタ Kreitserova Sonata』(91)『復活 Voskresenie』(89~99)、戯曲『闇の力 Vlast' t'my』(87)などの文学作品を書いたが、最後まで安らぎは得られず、1910年家出、リャザン=ウラル鉄道の小駅、アスターポボ(現在のレフ・トルストイ駅)の駅長官舎で没した。
  ──『ブリタニカ国際大百貨事典』

ガブリエル・ロレンハーゲン(ロレンハジウス) Gabriel Rollenhagen (Rollenhagius)

1583年3月22日マクデブルグにて出生、1619年?マクデブルグにて没。
ドイツ人でローマカトリック教徒の詩人、作家および標章製作者である。
マクデブルグの有名な説教師および教師ゲオルグ・ロレンハーゲンを父として生まれた彼は、ゲラルテンシュール教父をはじめとして、優れた教育を受けた。1602年卒業生総代としてラテン語で告別演説を行ったが、その内容は1620年出版された。急逝の直後であった。1602年ライプツィヒに進学し、1604年まで法学を学ぶが、1605年からはライデンの大学で勉学を続けた。ダニエル・ハインシウスと知り合ったことで、高名な人文主義学者であるヒューゴ・グロティウスやヨゼフ・スカリガーらと交流することになる。1606年マクデブルグに戻ったが、ライデンでの初期作品集を世に出したツケを負っていたと思われる。粗野なドイツ語で卑猥なロマンティック・コメディを多数出版したりもしたが、見事な成功を収めもした。その名声は、1611年のバロック時代の紋章を数多く扱った『Nucleus Emblematum』によるところが大きい。ほかに『Amantes amentes』(1609)もある。
  ──ウィキペディアドイツ語版(https://de.wikipedia.org/wiki/Gabriel_Rollenhagen)の内容をGoogleで英語にしたものを翻訳・抜粋

メアリー・カサット Mary Cassatt

1844.05.22生~1926.06.14没
アメリカの女性画家、版画家。ペンシルバニア美術アカデミーに学んだのち、1868年からヨーロッパ各地を旅行し、パリに定住。旅行の際、アントウェルペンでドガ(1834~1917)に会い、以降長く教えを受ける。作品の中心テーマは母子像で、様式的にはドガや日本の版画の影響が強い。絵画のほかに多くのエッチング、木版画も制作。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』
※ 著述家のメアリー・カサットは見つかりませんでした。
もしかしたら誤りかもしれませんね。

ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー Henry Wadsworth Longfellow

1807.02.27生~1882.03.24没
アメリカの詩人。ボードゥン大学卒業。同級にホーソーンがいた。その後3年間のヨーロッパ留学を経て、母校の近代語学教授(1829~35)をつとめた。1835年再度ヨーロッパに渡り、ノバーリス(1772~1801)などドイツ・ロマン派の影響を受けた。帰国後ハーバード大学教授(36~54)。その詩は感傷性、教訓性が目立つがリズムにすぐれ、特に『エバンジェリン Evangeline』(47)、『ハイアワサ The Song of Hiawatha』(55)、清教徒軍人の恋を描く『マイルズ・スタンディッシュの求婚 The Courtship of Miles Standish』(58)などの長編物語詩は広く愛読された。そのほか、詩集『夜の声 Voices of the Night』(39)、『民謡 Ballads and Other Poems』(42)、物語詩『路傍の宿物語 Tales of a Wayside Inn』(63~73)、詩劇3部作『クリスタス Christus』(72)、ダンテ『神曲』の翻訳(65~67)など多数。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

シモーヌ・ド・ボーボワール Simone de Beauvoir

1908.01.09生~1986.04.14没
フランスの女流作家、評論家。実存主義文学の代表者の一人。ブルジョアの生れで、パリ大学文学部在学中にサルトル(1905~1980)を知り、生涯にわたる関係を結ぶ。1929年教授資格を取得、パリをはじめ各地のリセ(高等中学校)で教鞭をとったが、43年以降教壇を去り、哲学、政治、社会問題など多岐にわたる著作活動を続けた。小説には『招かれた女 L'Invitée』(1943)、『他人の血 Le Sang des autres』(44)、『レ・マンダラン Les Mandarins』(54、ゴンクール賞)があり、評論には『人間について Pyrrhus et Cinéas』(44)、『多義性のモラルのために Pour une morale de l'ambigüté』(47)、浩瀚な女性論『第二の性 Deuxième Sexe』(49)、『老い La Vieillesse』(70)。ほかに、旅行記『アメリカその日その日 L'Amérique au jour le jour』(48)、『長征 La Longue Marche』(57)、回想録『娘時代 Mémoires d'une jeune fille rangée』(58)、『女ざかり La Force de l'âge』(60)、『事物の力 La Force des choses』(63)などがある。66年サルトルとともに来日した。
   ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ウィリアム・シェイクスピア William Shakespeare(劇作家)

1564.04.26生~1616.04.23没
イギリスの詩人、劇作家。公式には4月23日が誕生日とされている。裕福な商人の長男として生れ、父は一時町長に選ばれたが、まもなく没落したため、彼は土地のグラマー・スクールに通っただけで、大学に進んだ形跡はない。18歳のとき8歳年長のアン・ハサウェーと結婚、1男2女を得たが、その後の数年間については伝記的資料が皆無のため種々の憶測が行われている。おそらく20歳を過ぎてまもなくロンドンに出て劇界に入り、俳優として出発、やがて劇作に転じたものと思われる。劇作は1590年頃から開始され、最初はバラ戦争を主たる背景とする『ヘンリー6世 Henry VI』(3部作1590~92)、『リチャード3世 Richard III』(93)、笑劇に近い喜劇『じゃじゃ馬ならし The Taming of the Shrew』(94)を書いていたが、94年宮内大臣お抱え一座の幹部座員となるに及んで偉大な劇作家としての本領を発揮しはじめ、『ロミオとジュリエット Romeo and Juliet』(95)、『夏の夜の夢 A Midsummer Night's Dream』(95)、『リチャード2世 Richard II』(95)などの抒情的な作品を発表、さらに愛の喜劇のなかにシャイロックの悲劇を描いた『ベニスの商人 The Merchant of Venice』(96)、フォールスタッフの登場で有名な『ヘンリー4世 Henry IV』(2部作97)、生の歓喜のなかにも生きることのさびしさや、ときには生の倦怠さえも暗示する『お気に召すまま As You Like It』(99)、最高の喜劇『十二夜 The Twelfth Night』(1600)を書いた。続く数年間は「悲劇時代」と呼ばれ、生と死、善と悪、罪と罰、仮象と真実など人間の根本問題をテーマとした『ハムレット Hamlet』(1600)、『オセロ Othello』(04)、『リア王 King Lear』(05)、『マクベス Macbeth』(06)の四大悲劇を創作した。1608年頃から許しと和解を主題にしたいわゆるロマンス劇に転じ、『シンベリン Cymbeline』(09)、『冬の夜ばなし The Winter's Tale』(10)、単独作としては最後の『あらし The Tempest』(11)を書いた。詩としてはサウサンプトン伯に捧げた物語詩『ビーナスとアドニス Venus and Adonis』(1593)、『ルクリースの凌辱 The Rape of Lucrece』(94)、英詩では最大にして最高の『ソネット集 Sonnets』(1609)などがある。天成の詩人であった彼は無韻詩を縦横に駆使して韻文劇を創作し、その内容の深さと相まって最高の戯曲をつくり出した。その伝記には不明な部分があるため、シェークスピアの実在に疑問をいだく説(たとえばシェークスピアはF.ベーコンの筆名であるという)もあったが、現在では顧みられない。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

シモーヌ・ヴェイユ (ヴェーユ/ヴァイユ) Simone Weil
シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)(Simone Weil, 1909
年2 ⽉3 ⽇パリ、フランス- 1943 年8 ⽉24 ⽇ロンドン、イギリス)は、フランスの哲学者である。⽗はユダヤ系の医師で、数学者のアンドレ・ヴェイユは兄である。
彼⼥は第⼆次世界⼤戦中にロンドンでほぼ無名のまま客死した(享年34 歳)。戦後、残されたノートの⼀部が知⼈の編集で箴⾔集として出版されるとベストセラーになった。その後もあちこちに残されていた膨⼤な原稿・⼿紙・ノート類を知⼈たちが編集・出版するにつれてその深い思索への評価は⾼まり、何カ国語にも翻訳されるようになった。遺稿は政治思想、歴史論、神学思想、労働哲学、⼈⽣論、詩、未完の戯曲、⽇記、⼿紙など多岐に渡る。

セネカ Lucius Annaeus Seneca
紀元前4年頃生~紀元後65年没
ローマ後期ストア派の哲学者。大セネカの息子。ローマでストア派のアッタルスに学ぶ。弁護士として成功したが一時ローマを追われ、のち皇帝ネロの師傅、執政官となる。その後ピーソの謀反に加担した嫌疑を受け自殺に追込まれた。彼はピタゴラス、プラトン、エピクロス、キュニコス派に多くの点で影響を受けつつ、ストア主義の正統を守って哲学を理性的存在である人間の唯一の目的、幸福、善としての徳の修練に結びつけ、倫理生活の根本原則は自然に従って生きることにあるとした。また、倫理的な神観念や神の意志である世界法則と人間性の同質性を強調し、ストア主義における理想主義的宗教的側面の形成に寄与した。それゆえ彼の思想はキリスト教護教家たちによっても福音書の倫理説などと比較研究されている。『道徳的書簡集 Epistulae morales』107中の詩の一句「導き給え、おお高き天空の支配者なる父よ、いずこなりと御心のままに。進みて我は従いまつらむ」にはストア派の学説の結末を形づくる賢者の像が象徴されているといえよう。著書は7巻の『自然論 Naturales quaestiones』など多数。ほかに悲劇9編がある。文体は弁論調で警句に富み、名文として後世まで親しまれた。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ニコラ・ボワロー Nicolas Boileau-Despréaux

1636.11.01生~1711.03.13没
フランスの詩人、批評家。『詩法 L'Art poétique』(1674)で、自然、理性、古代、芸術的完成の4つに対する崇拝を唱え、フランス文学の黄金時代を築いた古典主義文学の美学を不動のものにするとともに、ヨーロッパ諸国の文学にも影響を及ぼした。ほかに『風刺詩集 Satires』(66)、『書簡詩集 Épîtres』(69~77)がある。モリエール、ラシーヌ、ラ・フォンテーヌのよき忠告者としての功績も大きい。「新旧論争」では古代派の先頭に立ち、『ロンギノス考 Réflexions sur Longin』(94)を残した。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』


いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。

2016年9月24日土曜日

自分自身をいたわるために・5



PHOTO: AC WORKS.CO.,LTD.

竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
お気に入りの一言を見つけてください。
この動画でご紹介している名言の発言者は以下のとおりです。

ヴィクトル・ユーゴー Victor-Marie Hugo

1802.02.26生~1885.05.22没
フランスの詩人、小説家、劇作家。ナポレオン軍の将軍を父にもつ。早くから自己の文学的使命に目ざめ、1822年処女詩集『オードと雑詠集 Odes et Poésies diverses』を発表。以降約60年間にわたり、ロマン派の総帥、国民的大詩人として、また一貫した共和主義者として、フランス文学史上不朽の足跡を残した。その死は国葬をもって送られ、パリ中の人が参列したという。代表作に、ロマン派の宣言と勝利を記念する戯曲『クロムウェル Cromwell』(1827)、『エルナニ Hernani』(30)、詩集『東方詩集 Les Orientales』(29)、『秋の木の葉 Les Feuilles d'automne』(31)、『静観詩集 Les Contemplations』(56)、『諸世紀の伝説 La Légende de siècles』(59~83)、小説『ノートル・ダム・ド・パリ Notre-Dame de Paris』(31)、『レ・ミゼラブル Les Misérables』(62)、『海に働く人々 Les Travailleur de la mer』(66)などがある。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

プルタルコス Plutarchus (プルターク Plutarch《英語読み》)

46~48 年頃生~ 127 年頃没
帝政ローマのギリシア⼈著述家。著作に『対⽐列伝』(英雄伝)などがある。
ボイオティアにあるカイロネイアの名⾨出⾝。アテナイで数学と⾃然哲学を学び、ギリシャ本⼟と⼩アジアのサルディス、エジプトのアレクサンドリアに赴き、カイロネイアの使節としてローマにも度々滞在した。⽣涯を故郷で過ごし、市⺠と親しく付き合い、ローマからの客をもてなしたので、家は⼤いに賑わったとされる。⼀⽅では、デルフォイ神殿の神官と交流を持ち、神託を推奨した。思想的にはアカデメイア派に属し、その他ストア派やペリパトス派の考え⽅も取り⼊れていた。
著作活動は熱⼼で、3 世紀頃に編纂されたプルタルコス著作⽬録によれば、『対⽐列伝』(英雄伝)をはじめ、227 もの書物が挙げられている。
『対⽐列伝』は1 ⼈の⼈物を記述した単独伝記4編と、古代ギリシアの⼈物と古代ローマの⼈物を対⽐した対⽐列伝22 編からなる。対⽐列伝では、アテナイの王テーセウスと王政ローマを建国したロームルス、スパルタの律法者リュクルゴスとローマの古王ヌマ、アレクサンドロス3 世(⼤王)とカエサル、などが対⽐されている。
この『対⽐列伝』は16 世紀にジャック・アミヨによる仏訳がなされ、その仏語版から17 世紀のサー・トマス・ノースが訳した英語版を参考にシェイクスピアは『ジュリアス・シーザー』、『アントニーとクレオパトラ』、『コリオレイナス』などのローマ史劇を執筆したとされる。
『倫理論集(モラリア)』は政治・宗教・哲学などについて論じた随想集であり、エッセーの起源であるとされる。のちにモンテーニュやラブレーなどのルネサンス期のフランス⽂学や、ラ・ロシュフーコーなど17、18 世紀のフランスモラリストに、⼤いなる影響があった。

ゲーテ Johann Wolfgang von Goethe

1749.08.28生~1832.03.22没
ドイツの詩人、小説家、劇作家。富裕な市民の子として生まれ、ライプチヒとシュトラスブルグの大学で法律を学んだが、ヘルダーとの出会いを契機に文学に目ざめ、シュトゥルム・ウント・ドラング運動に参加、その記念碑的な戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン Götz von Berlichingen』(1773)、小説『若きウェルテルの悩み Die Leidan des jungen Werthers』(1774)で一挙に文名を高めた。1775年以降はワイマール公国の要職を歴任しつつ、イタリア旅行や1794年以降のシラーとの交遊を糧として調和と普遍的人間性に基づくドイツ古典主義文学を確立。その生涯は、豊かな天才が健康、環境、体験に恵まれ、努力に支えられて高く伸び、大きく開花した稀有の例である。代表作、ロマン派に大きな影響を与えた教養小説『ウィルヘルム・マイスター Wilhelm Meister』(『修業時代』1795、『遍歴時代』1829)、『ファウスト Faust』(第1部1808、第2部1832)のほか、戯曲『エグモント Egmont』(1787)、『タウリスのイフィゲニー Iphigenie auf Tauris』(1787)、叙事詩『ヘルマンとドロテーア Hermann und Dorothea』(1797)、抒情詩集『ローマのエレギー Römische Elegien』(1795)、小説『親和力 Die Wahlverwandtschaften』(1809)、自伝『詩と真実 Aus meinem Leben.  Dichtung und Wahrheit』(第1~3巻1811~14、第4巻1833)、『イタリア紀行 Italiensche Reise』(1816~29)、『西東詩集 Westöstlicher Divan』(1819)などがあり、シラーとの往復書簡集や風刺詩『クセーニエン Xenien』(1796)も有名。また色彩論など自然科学の研究にも優れた業績を残した。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ルノアール Pierre Auguste Renoir

1841.02.25生~1919.12.17没
フランスの画家。仕立屋の子として生れ、4歳のとき一家とともにパリに移り、セーブル製陶工場で徒弟として働いた。1862年C.グレールのアトリエに入り、そこでC.モネ(1840~1926)、A.シスレー(1839~1899)らと交遊。64、65年サロンに出品。74年第1回印象派展に参加し、以降3回出品。81~82年イタリアへ旅行し古典絵画の影響を受けて、83年頃から厳格な線描と淡い色彩による古典様式の絵を描いた。しかし数年後再び新鮮な色彩感が現れるようになり、虹色、オレンジ、赤を主調とした人物、風景を描き、色彩画家として独自の画風を発展、大成させた。95~96年から次第に裸婦の連作が多くなり、晩年は彫刻の制作にもたずさわって、豊満な女性像を残した。生前住んだ南仏カーニュの別荘コレットは、現在ルノアール美術館となっている。主要作品『シャルパンティエ夫人とその家族たち』(1878、メトロポリタン美術館)、『浴女たち』(1918~19、オルセー美術館)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

エーリヒ・フロム Erich Fromm

1900.03.23生~1980.3.18没
ドイツ生れのアメリカの精神分析学者、社会心理学者。新フロイト派の一人。精神分析の社会学派といわれ、政治的、宗教的、経済的条件で個人の「社会的性格」が形成されると主張し、社会の健全な発展のため、精神分析法を導入することを提唱した。ナチスに追われ、フランスを経て1933年にアメリカに渡り、シカゴ精神分析研究所などの研究員をつとめ、40年アメリカに帰化。49年メキシコに移住し、以降アメリカと両国で活躍していた。51年、メキシコ国立大学教授。主著『自由からの逃走 Escape from Freedom』(1941)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

エレノア・ランバート Eleanor Lambert Berkson

エレノア・ランバート・バークソン(1903年8月10日-2003年10月7日)は、アメリカのファッションおよび広告業界の中心人物であった。
1930年代半ば、ランバートはホイットニー美術館の初代宣伝部長で、現代美術館の資金繰りを手助けした。ジャクソン・ポラック、ジェイコブ・エプスタイン、イサム・ノグチは彼女が手がけた多くの芸術家の一握りである。1940年代、ランバートは国際ベストドレッサー・リスト、コティ・ファッション評論家賞(1943)、ニューヨーク・ファッション・ウィークを設立。1959年および1967年、アメリカ国務省から依頼を受け、ロシア、ドイツ、イタリア、オーストラリア、日本、イギリス、スイスでアメリカのファッションを初めて紹介した。1965年、リンドン・ジョンソン大統領により、国際芸術基金の芸術評議員に任命された。1962年、アメリカ・ファッションデザイナー評議会(CFDA)を設立、2003年死に至るまで名誉会員であり続けた。2001年CFDAはエレノア・ランバート賞を設け、「世界のファッションに無類の貢献をし、産業への功労を認めた者」を対象としている。彼女が亡くなる数ヶ月前、ヴァニティ・フェア誌の4人の編集者に国際ベストドレッサー・リストを残した。9月に行われたニューヨーク・ファッション・ウィークに公に姿を現して間もなく、ランバートは2003年息を引き取った。100歳であった。彼女の死後間もなく、孫のモーゼス・バークソンがランバートの人生を描いたドキュメンタリー映画を完成させた。ファッション史家のジョン・A・ティファニー氏はランバートに育てられた。ランバートを「アメリカの著しい逸材であるとともに、世界の逸材でもある」と評価する筋もある、それほどファッション業界における影響力が大きかった。
  ──ウィキペディア英語版(https://en.wikipedia.org/wiki/Eleanor_Lambert)より翻訳・抜粋

アーニー・J・ゼリンスキー Ernie J. Zelinski

アーニー・J・ゼリンスキー(Ernie J. Zelinski)は、カナダの作家、コンサルタント、講演家。仕事と自由時間をクリエイティブにする方法のコンサルタントとして活躍する人物であり、多くの著書を発表し国際的なベストセラー書も生み出す。(参考文献:ウィキペディア+Amazon.co.jp)
  ──地球の名言(http://earth-words.org/archives/13273

ヘンリック・イプセン Henrik Johan Ibsen

1828.03.20生~1906.05.23没
ノルウェーの劇作家。家は裕福であったが、彼が8歳のときに破産、15歳でグリムスタの薬剤師の徒弟になった。ローマの革命家に取材した戯曲『カティリーナ Catilina』(1850)が処女作。1864年二度と故国に帰らぬつもりで外遊、『ブラン Brand』(66)でようやく名声を得た。以降『ペール・ギュント Peer Gynt』(67)、『皇帝とガリラヤ人 Kejser og Galilæer』(73)などの思想劇、次いで『人形の家 Et Dukkehjem』(79)、『幽霊 Gengangere』(81)、『民衆の敵 En Folkefiende』(82)、『野鴨 Vildanden』(84)などの社会劇によって近代劇を確立、『ロスメルスホルム Rosmersholm』(86)、『ヘッダ・ガーブラー Hedda Gabler』(90)を書いたのち、28年ぶりに故国に帰り、『建築師スールネス Bygmester Solness』(92)、『小さいエイヨルフ Lille Eyolf』(94)、『ヨハン・ガーブリエル・ボルクマン John Gabriel Borkman』(96)、最後の作『われら死者の目ざめるとき Når vi døde vågner』(99)を発表した。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

バイロン George Gordon (Noel) Byron

1788.01.22生~1824.04.19没
イギリスの詩人。ポルトガルからギリシアへの旅を扱った長詩『チャイルド・ハロルドの巡礼 Childe Harold's Pilgrimage』の1~2巻(1812)によって一挙に名声を獲得、社交界の寵児となったが、異母姉オーガスタとの醜聞のためにイギリスを追われ、1816年イタリアへ渡った。23年ギリシアの独立戦争に参加、翌年戦病死した。作品には、風刺詩『ドン・ジュアン Don Juan』(19~24)、劇詩『マンフレッド Manfred』(17)、『カイン Cain』(21)、最後の作品『ウェルナー Werner』(22)など。湧出る豊かな抒情、感傷を誘う異国情緒、奔放な情熱の物語、機知縦横の風刺など多方面にたくましい才能を発揮して、ことに大陸のロマン主義文学に大きな影響を与えた。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』


いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。

自分自身をいたわるために・4


PHOTO: AC WORKS.CO.,LTD.

竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
お気に入りの一言を見つけてください。
この動画でご紹介している名言の発言者は以下のとおりです。

ディエゴ・ファブリ Diego Fabbri

ディエゴ・ファッブリ(Diego Fabbri, 1911年7月2日 - 1980年8月14日)は、イタリアの劇作家、小説家、脚本家である。
1911年7月2日、イタリアのエミリア=ロマーニャ州フォルリ=チェゼーナ県フォルリに生まれる。
1942年(昭和17年)には、ロモロ・マルチェッリーニ監督の『天使的な牧者』の脚本を執筆した記録がある。1945年の第二次世界大戦終了後には、間もなくネオレアリズモの映画運動に、脚本家として参加し始める。
1959年、ロベルト・ロッセリーニが監督した映画『ロベレ将軍』の脚本執筆に参加、同作の脚本を共同執筆したロッセリーニ、セルジオ・アミデイ、インドロ・モンタネッリとともに、同年、サンフランシスコ国際映画祭金門賞脚本賞を受賞、1962年には第34回アカデミー賞でアカデミー脚本賞にノミネートされた。1960年には、第13回カンヌ国際映画祭でコンペティション部門の審査員を務める。
1973年、イタリア共和国功労勲章を受章する。1977年、アントニオ・フェルトリネッリ賞を受賞する。
1980年8月14日、エミリア=ロマーニャ州リミニ県リッチョーネで死去した。満69歳没。

ヴォルテール Voltaire

1964.11.21生~1778.05.30没
フランスの作家、啓蒙思想家。本名François-Marie Arouet。著作は哲学、詩、戯曲、批評、歴史、小説、書簡などにわたり膨大。1726~28年のイギリス滞在後、『哲学書簡 Lettres philosophiques ou lettres anglaises』(1734)でイギリス経験論をフランスに導入、専制批判、教権批判を開始。理神論をとり、無神論に反対したが、狂信や偏見を激しく攻撃し、カラス、シルバン、ラ・バール迫害事件に際しては寛容を訴えた。またディドロらの百科全書派の運動を支持し、フランス革命の精神的基盤を準備した。合理精神に培われた最もフランス的な明快で機知にあふれる18世紀散文の創始者、すぐれた風刺作家として独自の地位を占めている。悲劇『ザイール Zaïre』(32)、小説『ザディグ Zadig』(47)、『カンディド Candide』(59)、歴史書『ルイ14世の世紀 Le Siècle de Louis XIV』(51)、『習俗論 L'Essai sur les mœurs』(56)、『哲学辞典 Dictionnaire philosophique portatif』(64)など。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ロバート・シュラー Robert Harold Schuller

ロバート・ハロルド・シュラー(Robert Harold Schuller、1926年9月16日-2015年4月2日)は、アメリカのテレビ宣教師、牧師、誘導的演説家、および作家である。
50年におよぶテレビ出演で、主に毎週放送される『Hour of Power』の顔として知られる。この番組は1970年、シュラーが進行役を務める形で、ニュートラ・サンクチュアリーからの放送が開始され、2010年彼が引退するまで続いた。カリフォルニア州ガーデン・グローブのクリスタル大聖堂の創設者でもあり、のちに『Hour of Power』はここから放送されるようになる。
オランダ系移民の家系で、5人兄弟の末っ子。幼少期をアイオワ州アルトンの両親の経営する農場で育つ。1931年、5歳の誕生日に、聖職者である叔父に福音伝道者になるよう言われたことが、この道に進むきっかけとなった。
著作は30以上にもおよび、内6冊はニューヨーク・タイムズ紙の週間ベストセラーリストに載った。『Way to the Good Life』(1963)、『Your Future is Your Friend 』(1964)、『Success Is Never Ending, Failure Is Never Final』(1990)、『Hours of Power』 (2004)など。
  ──ウィキペディア英語版(https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_H._Schuller)より翻訳・抜粋

エリザベス・キュープラー・ロス Elisabeth Kübler-Ross

エリザベス・キューブラー=ロス(独:Elisabeth Kübler-Ross、1926年7月8日 - 2004年8月24日)は、精神科医。死と死ぬことについての画期的な本(『死ぬ瞬間』)の著者 。
その中で彼女は初めて今日死の受容のプロセスと呼ばれている「キューブラー=ロスモデル」を提唱している。まさに死の間際にある患者とのかかわりや悲哀(Grief)の考察や悲哀の仕事(Grief work)についての先駆的な業績で知られる。
スイスのチューリッヒに、三つ子姉妹の長女として生まれる。父親が医学部進学に反対で、自ら学費を捻出するため、当初は専門学校を経て、検査技師をしていた。その後、1957年、31歳の時にチューリッヒ大学医学部を卒業している。彼女は医学部での学生時代に知り合ったアメリカ人留学生マニー・ロスと共に1958年学業をさらに続け、また働き口を探すべくアメリカにわたった。
彼女が自身の医療活動を始めようとした時、病院が死に掛けている患者を扱う態度に、愕然とさせられる。そこで、病気の患者をどう扱うべきなのかという一連の講義を始めた。これが、1961年の死と死ぬことについての講義につながっていく。1963年には、コロラド大学で精神科医の単位を取得している。1965年からシカゴ大学医学部に移り、臨床的な研究を発展させた。彼女は、死をテーマにして20冊もの本を書き、世界各地で数多くの講演などを行った。1974年から1996年の間にそれらの業績に対して、複数の大学、単科大学から20の名誉博士号を授与されている。

アガサ・クリスティ Agatha (Mary Clarissa) Christie

1891.09.15生~1976.01.12没
イギリスの女流推理小説作家。ベルギー人のしろうと探偵エルキュール・ポアロの活躍する作品で世界的人気を博した。ほかに中年女性ミス・マープルを探偵役とするシリーズがある。代表作に『アクロイド殺人事件 The Murder of Roger Ackroyd』(1926)など。推理劇『鼠おとし The Mousetrap』(52)は世界最長のロングランを誇った。多くの作品が映画化されている。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ドリス・レッシング Doris Lessing

1919.10.22生~
ペルシア生まれのイギリスの作家。フルネームDoris May Lessing、本名Doris May Taylor。5歳のときイギリス人両親とともに南ローデシアに移住、農場で育つ。1949年ゴットフリート・レッシングと離婚後、息子を伴ってイギリスに渡り、1952~56年イギリス共産党員として活動。作品の多くはアフリカを舞台にし、左翼的立場に立って、植民地問題をはじめとする社会的、政治的主題を扱う。第一作『草は歌っている The Grass Is Singing』(1950)ののち、半自伝的な連作「暴力の子供たち Children of Violence」(5巻、1952~69)によって名声を確立。ほかに、ポストモダン小説『黄金のノート The Golden Notebook』(1962)、SF連作「アルゴ座のカノープス Canopus in Argos: Archives」(5巻、1979~83)、『ザ・クレフト The Cleft』(2007)、自伝などがある。ジェーン・ソマーズの筆名でも2作品を発表。2007年イギリス人女性としては初のノーベル文学賞を受賞した。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ジョン・グレイ John Gray

ジョン・グレイ (1951年12月28日生まれ)は、アメリカの人間関係カウンセラー、講師、作家である。1969年、ヨガ行者のマハリシ・マーヘシュとともに協会を設立し9年間続いたが、これはまだ作家および人間関係カウンセラーとしてのキャリアを歩む以前のことである。1992年『Men Are from Mars, Women Are from Venus』を出版、長年にわたりベストセラーとなり、続く著作および仕事の核となった。作品は世界中で何百万もの人に読まれてはいるが、学会から批判され、人間関係心理学の原動力を卑小化させている。
テキサス州ヒューストンで、石油企業重役の父と霊的書店を営む母のもとに生まれた。キリスト教徒であった両親は、彼にヨガを教え、インド人聖者ヨガナンダに会わせた。ヨガ行者の自伝がのちの人生に多大な影響を与えることになる。
グレイは人間関係および自己形成に関する本を17冊書いている。最新作『Venus on Fire, Mars on Ice』では、健康的でロマンティックなパートナーを維持する人間関係と食物と栄養のの役割について述べている。
  ──ウィキペディア英語版(https://en.wikipedia.org/wiki/John_Gray_(U.S._author))より翻訳・抜粋

ヨハン・フィヒテ Johann Gottlieb Fichte

1762.05.19生~1814.01.27没
ドイツの哲学者。ドイツ観念論の代表者の一人。イマヌエル・カント(1724~1804)の影響を強く受けた。1792年匿名で出版した『あらゆる啓示の批判試論 Versuch einer Kritik aller Offenbarung』は出版前にカントに見せ、称賛を得た。1793年イェナ大学教授となり、1794年知識学を提唱した。自我を絶対的原理とする彼の知識学では、意識は事物Tatsacheではなく、事行Tathandlungであり、自由に自己自身を定立する自我は純粋活動であるとされた。1798年無神論争を起こし、1799年イェナを追われ、1807年新設のベルリン大学教授となった。1807~08年ナポレオン1世によるフランス軍支配下のベルリンで『ドイツ国民に告ぐ Reden an die deutsche Nation』を講演し、ドイツ国民の愛国心を鼓舞。フランスとの戦争に看護師として志願していた夫人がチフスにかかり、夫人から感染して死亡した。主著『全知識学の基礎 Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre』(1794)、『人間の使命 Die Bestimmung des Menschen』(1800)、『現代の特質 Grundzüge des gegenwärtigen Zeitalters』(1806)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ウィリアム・シェイクスピア William Shakespeare

1564.04.26生~1616.04.23没
イギリスの詩人、劇作家。公式には4月23日が誕生日とされている。裕福な商人の長男として生れ、父は一時町長に選ばれたが、まもなく没落したため、彼は土地のグラマー・スクールに通っただけで、大学に進んだ形跡はない。18歳のとき8歳年長のアン・ハサウェーと結婚、1男2女を得たが、その後の数年間については伝記的資料が皆無のため種々の憶測が行われている。おそらく20歳を過ぎてまもなくロンドンに出て劇界に入り、俳優として出発、やがて劇作に転じたものと思われる。劇作は1590年頃から開始され、最初はバラ戦争を主たる背景とする『ヘンリー6世 Henry VI』(3部作1590~92)、『リチャード3世 Richard III』(93)、笑劇に近い喜劇『じゃじゃ馬ならし The Taming of the Shrew』(94)を書いていたが、94年宮内大臣お抱え一座の幹部座員となるに及んで偉大な劇作家としての本領を発揮しはじめ、『ロミオとジュリエット Romeo and Juliet』(95)、『夏の夜の夢 A Midsummer Night's Dream』(95)、『リチャード2世 Richard II』(95)などの抒情的な作品を発表、さらに愛の喜劇のなかにシャイロックの悲劇を描いた『ベニスの商人 The Merchant of Venice』(96)、フォールスタッフの登場で有名な『ヘンリー4世 Henry IV』(2部作97)、生の歓喜のなかにも生きることのさびしさや、ときには生の倦怠さえも暗示する『お気に召すまま As You Like It』(99)、最高の喜劇『十二夜 The Twelfth Night』(1600)を書いた。続く数年間は「悲劇時代」と呼ばれ、生と死、善と悪、罪と罰、仮象と真実など人間の根本問題をテーマとした『ハムレット Hamlet』(1600)、『オセロ Othello』(04)、『リア王 King Lear』(05)、『マクベス Macbeth』(06)の四大悲劇を創作した。1608年頃から許しと和解を主題にしたいわゆるロマンス劇に転じ、『シンベリン Cymbeline』(09)、『冬の夜ばなし The Winter's Tale』(10)、単独作としては最後の『あらし The Tempest』(11)を書いた。詩としてはサウサンプトン伯に捧げた物語詩『ビーナスとアドニス Venus and Adonis』(1593)、『ルクリースの凌辱 The Rape of Lucrece』(94)、英詩では最大にして最高の『ソネット集 Sonnets』(1609)などがある。天成の詩人であった彼は無韻詩を縦横に駆使して韻文劇を創作し、その内容の深さと相まって最高の戯曲をつくり出した。その伝記には不明な部分があるため、シェークスピアの実在に疑問をいだく説(たとえばシェークスピアはF.ベーコンの筆名であるという)もあったが、現在では顧みられない。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』


いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。

2016年9月21日水曜日

自分自身をいたわるために・3


竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
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この動画でご紹介している名言の発言者は以下のとおりです。

ビクトリア(ヴィクトリア)・モラン Victoria Moran

ビクトリア・モランは、アメリカの作家、講演者。霊性と完全菜食主義に特化した本を書いている。モランは、ラジオ番組『Main Street Vegan』とポドキャストをUnity Online Radioで主催している。
フリーランスの雑誌記者としてキャリアをスタートし、1985年、大学在学中の論点を基にした『Compassion the Ultimate Ethic』に始まり、何冊もの菜食主義ベストセラー本を出版するまでに至った。2012年に発表した『Main Street Vegan』は会社の基本理念とアウトリーチがベースで、Main Street Veganポドキャスト、Main Street Veganアカデミー、Main Street Veganプロダクションを含む。完全菜食主義分野での業績は2012年年間完全菜食主義者賞をもたらし、ポドキャストで2015年完全菜食主義メディア・アウトレット賞を受賞した。最新作は2015年の『The Good Karma Diet』と題される作品である。
  ──ウィキペディア英語版(https://en.wikipedia.org/wiki/Victoria_Moran)より翻訳・抜粋

フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー Francois de La Rochefoucauld

ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世(François VI, duc de La Rochefoucauld, 1613年9月15日 - 1680年3月17日)は、フランスの貴族、モラリスト文学者。
名門貴族の生まれであり、多くの戦いに参加した後、いわゆる『箴言集(しんげんしゅう)』を執筆した。彼の作品に見られる辛辣な人間観察には、リシュリューと対立して2年間の謹慎処分を受けたことや、フロンドの乱でマザランと対立したことなどで味わった苦難が反映されているとも言われる。

ゲーテ Johann Wolfgang von Goethe

1749.08.28生~1832.03.22没
ドイツの詩人、小説家、劇作家。富裕な市民の子として生まれ、ライプチヒとシュトラスブルグの大学で法律を学んだが、ヘルダーとの出会いを契機に文学に目ざめ、シュトゥルム・ウント・ドラング運動に参加、その記念碑的な戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン Götz von Berlichingen』(1773)、小説『若きウェルテルの悩み Die Leidan des jungen Werthers』(1774)で一挙に文名を高めた。1775年以降はワイマール公国の要職を歴任しつつ、イタリア旅行や1794年以降のシラーとの交遊を糧として調和と普遍的人間性に基づくドイツ古典主義文学を確立。その生涯は、豊かな天才が健康、環境、体験に恵まれ、努力に支えられて高く伸び、大きく開花した稀有の例である。代表作、ロマン派に大きな影響を与えた教養小説『ウィルヘルム・マイスター Wilhelm Meister』(『修業時代』1795、『遍歴時代』1829)、『ファウスト Faust』(第1部1808、第2部1832)のほか、戯曲『エグモント Egmont』(1787)、『タウリスのイフィゲニー Iphigenie auf Tauris』(1787)、叙事詩『ヘルマンとドロテーア Hermann und Dorothea』(1797)、抒情詩集『ローマのエレギー Römische Elegien』(1795)、小説『親和力 Die Wahlverwandtschaften』(1809)、自伝『詩と真実 Aus meinem Leben.  Dichtung und Wahrheit』(第1~3巻1811~14、第4巻1833)、『イタリア紀行 Italiensche Reise』(1816~29)、『西東詩集 Westöstlicher Divan』(1819)などがあり、シラーとの往復書簡集や風刺詩『クセーニエン Xenien』(1796)も有名。また色彩論など自然科学の研究にも優れた業績を残した。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ロバート・ブライ Robert Bly

ロバート・ブライ(1926年12月23日生まれ)はアメリカの詩人、作家、活動家、神話詩人活動の指導者である。最も商業的成功を収めた本は『Iron John: A Book About Men』(1990)であり、神話詩人活動のかぎとなるもので、62週にわたりニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー・リストに載り続けた。1968年著作『The Light Around the Body』が詩の分野でナショナル・ブック・アワードを受賞。
  ──ウィキペディア英語版(https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Bly)より翻訳・抜粋

キケロ Marcus Tullius Cicero

紀元前106.01.03生~紀元前43.12.07没
ローマの雄弁家、政治家、哲学者。ラテン散文の完成者。共和政末期の混乱の世に、最高の教養と雄弁をもって、不正の弾劾者、自由の擁護者として活躍。第1次三頭政治のもとで、前58年追放され、翌年帰国後も自由な政治活動ができず、哲学的著作に従事。カエサル暗殺後再び元老院の重鎮として活躍、14編の演説『フィリピカ Phillippicae』(前44~43)によってアントニウスを攻撃したが、第2次三頭政治成立後暗殺された。作品は演説百余編のうち58編と、哲学と修辞学の著作20作、書簡900通あまりが現存。主要著書は『弁論家論 De oratore』(前55)、『国家論 De republica』(前54~52)、『ブルーツス Brutus』(前46)、『善と悪の限界について De finibus bonorum et malorum』(前45)、『トゥスクルム論叢 Tusculanae disputationes』(前45)、『神々の本性について De natura deorum』(前44)、『義務について De officiis』(前44)など。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

アン・ウィルソン=シェイフ Anne Wilson-Schaef

アン・ウィルソン=シェイフは臨床心理学の博士号を所持しており、オハイオ州ケニヨンのケニヨン大学から名誉学位免状を受けている。何年もの経験ののち、1984年心理学および心理療法の分野から身を引いた。Living in Processと名づけた、脈々と続く祖先からの教えを用いる一人の人間を丸ごと癒す独自の方法を見出した。
Living in Processは中毒性のある作用から立ち直り、身体、心、精神すべてにいきわたるよう機能する。過去20年間、世界中にこの方法を広めてきた。講演者、コンサルタントとして世界的に尊敬を集めている。この20年、摂取性依存症(飲酒、食べ物、薬物など)と作用依存症(仕事、ギャンブル、セックス、人間関係など)の両面で依存症に積極的に取り組んできた。
彼女の13冊の本を出版しており、日本語、中国語、クロアチア語、フランス語、スペイン語、スウェーデン語、イタリア語、ドイツ語など各国語に翻訳されている。世界中でベストセラーになっており、ニューヨーク・タイムズ紙ベストセラー、年間最優秀政治本にもノミネートされ、『Meditations for Women Who Do Too Much』などは200万部以上売れている。彼女の本は2つのジャンルに分類される、ひとつは、社会がいかに機能するかに関する学術的論評、もうひとつは、個人的成長と癒しに関する本である。本だけでなく記事も書いており、世界の主要なラジオ、テレビにも出演している。
  ──Living in Processホームページ(http://www.livinginprocess.com/anne-wilson-schaef.php)より翻訳・抜粋

ジョージ・エリオット George Eliot

1819.11.22生~1880.12.22没
イギリスの女流作家。本名Mary Ann Evans。伝統的なキリスト教信仰のなかで育ったが、やがて実証主義哲学の影響を受けて信仰を捨て、不可知論の立場をとった。世間の批判を押し切って、妻子のある批評家G.H.ルイスと同棲、40歳近くになって小説を書き始めた。人間の行為を、動機から結果にいたるまで精細に分析し、その道徳的責任を徹底的に追及するきわめて主知的、道徳的な作風。主要作品には『アダム・ビード Adam Bede』(1859)、『フロス川の水車場 The Mill on the Floss』(60)、『サイラス・マーナーSilas Marner』(61)をはじめ、サボナローラ時代のイタリアを背景にした『ロモラ Romola』(62~63)や最高傑作『ミドルマーチ Middlemarch』(71~72)などがある。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

エドワード・トマス (Philip) Edward Thomas

1878.03.03生~1917.04.09没
イギリスの詩人。ジョージ朝詩人の一人であるが、繊細な感覚と生に対する哀感に満ちた精緻な筆致は彼をすぐれた現代詩人としている。地誌的な『森の生活 The Woodland Life』(1897)、またスウィンバーン、ペーター、メーテルリンクらの伝記を書いたが、フロストのすすめで30歳を過ぎてから詩を書きはじめ、『詩集 Collected Poems』(1920、28、49)を残して第1次世界大戦で戦死した。ほかにエッセー集『安息と不安 Rest and Unrest』(10)がある。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。

自分自身をいたわるために・2



竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
お気に入りの一言を見つけてください。
この動画でご紹介している名言の発言者は以下のとおりです。


エピクトス Epikouros

エピクロス(Epikouros紀元前341 年–紀元前270 年)は、快楽主義などで知られる古代ギリシアのヘレニズム期の哲学者。エピクロス派の始祖である。
現実の煩わしさから解放された状態を「快」として、⼈⽣をその追求のみに費やすことを主張した。後世、エピキュリアン= 快楽主義者という意味に転化してしまうが、エピクロス⾃⾝は⾁体的な快楽とは異なる精神的快楽を重視しており、⾁体的快楽をむしろ「苦」と考えた。
  ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B9

プブリリウス・シルス Publilius Syrus

プブリリウス・シルス Publilius Syrus は、古代ローマ人の作家で、格言でよく知られている。彼はシリア人であったが、イタリアへ奴隷として連れてこられ、機知と才能で主人の寵愛を勝ち得、その主人は彼を解放し、教育を施した。プブリリウスという名は、2つの「i」に挟まれた「l」が早期中世に口蓋音化したもので、しばしば手書き(印刷物でも数例)「プブリウス」の誤植として表される。
現存する資料は格言集で、短長格と強弱格の詩による一連の道徳的な処世訓である。この全集はかなり早い時期に作られたに違いなく、紀元後2世紀のアウルス・ゲリウスにも知られている。各格言は単一の詩で構成されており、冒頭の文字により、アルファベット順に配列されている。時代の推移により、全集は他の作家の手による文を加えてあり、小セネカ(Lusius Annaeus Seneca) の作とされる出典の怪しいものも多い。オリジナル詩の数はおよそ700。多くは簡潔な言い伝えで、『エディンバラ・レビュー』誌のモットーとして用いられている「iudex damnatur ubi nocens absolvitur(罪人が無罪になれば裁判官が糾弾される)」など有名なものもある。
  ──ウィキペディア英語版
http://en.wikipedia.org/wiki/Publilius_Syrus)より翻訳・抜粋

マルクス・アウレリウス Marcus Aurelius
マルクス・アウレリウス・アントニヌス Marcus Aurelius Antoninus

121.04.26生~180.03.17没
第16代ローマ皇帝(在位:161年 - 180年)。ネルウァ=アントニヌス朝では第五代皇帝。第15代皇帝アントニヌス・ピウスの后妃ファウスティナ・マイヨル(大ファウスティナ)の甥で先帝の外戚にあたり、また大ファウスティナはハドリアヌスとトラヤヌスの傍系血族でもある。
外叔父アントニヌスの皇女で自身の従姉妹であるファウスティナ・ミノル(小ファウスティナ)と結婚して帝位を継承したが、共同皇帝としてハドリアヌスの重臣の子ルキウス・ウェルスが立てられていた。アウレリウスは小ファウスティナとの長女ルキッラを嫁がせて両皇帝の結束を固めたが、169年にウェルスが死んだ事で単独の皇帝となった。
ストア哲学などの学識に長け、良く国を治めた事からネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌスに並ぶ皇帝(五賢帝)と評された。対外政策ではパルティアとの戦争に勝利を収めたが、蛮族への予防戦争として始めたマルコマンニ人、クアディ人、サルマティア人などへの遠征(マルコマンニ戦争)は長期戦となり、国力を疲弊させ、自らも陣中で没した。
軍事よりも学問を好んだ皇帝という姿は、彼の著作である『自省録』への評価を通じて今日も維持されている。これはプラトンの時代から学識者にとって理想とされた「哲人君主」の実現例と見なされているからである。
また、後漢書に見られる安敦とは、彼のことだとされている。
  ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB

フランシス・ベーコン Francis Bacon

1561.01.22生~1626.04.09没
イギリスの哲学者。近代イギリス経験論の創始者。ケンブリッジ大学に学んだのち、パリに渡ったが、父の死後帰国し、国会議員などの政治活動に入った。1621年汚職のため公職を退き、以降著述に専念した。彼はアリストテレスの『オルガノン』に代る新しいオルガノン『ノブム・オルガヌム(新機関)Novum Organum』(1620)を著わし、経験的方法を重視し、演繹法に対し帰納法を提唱した。すなわちアリストテレス的スコラ哲学の三段論法による4つのイドラ、すなわし(1)種族のイドラ、(2)洞窟のイドラ、(3)市場のイドラ、(4)劇場のイドラを排除し、客観的観察、実験的方法による学問を主張した。ユートピア物語として『新アトランティス Nova Atlantis』(27)がある。ほかに『学問の進歩 The Advancement of Learning』(05)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

カール・A・メニンガー Karl Augustus Menninger

1893~1990
アメリカの代表的な精神分析医。1925年カンザス州トピカで、父や弟とともにメニンガー・クリニックを創設、さらに45年メニンガー精神医学校を設立した。これらは精神分析的治療と教育の中心として、世界の力動精神医学の発展に大きな影響を与えている。著作は多数に及ぶが、治療契約論と治療的退行を中心として精神分析技法を解明した『精神分析技法論』(1958)、フロイトの「死の本能」論に注目した『己に背くもの』(1938)、そのほか『人間の心』(1930)、『愛憎』(1942)などが広く知られている。
  ──『世界大百科事典』(執筆:馬場謙一氏)

ベートーベン Ludwig van Beethoven

1770.12.17生~1827.03.26没
ドイツの作曲家。ウィーン古典派様式の完成者で、西洋音楽の代表的巨匠の一人。幼少時から父親にきびしいピアノの訓練を受け、1782年にボンの宮廷礼拝堂のオルガン奏者になったが、92年ウィーンに出、ハイドン、J.シェンク、A.サリエリ、J.アルブレヒツベルガーらに師事、またワルトシュタイン伯、リヒノフスキー公、ルドルフ大公ら貴族の後援を得て活躍。聴覚を失うなど、大きな不幸に遭遇しながら、それらを克服して多くの傑作を残した。代表作品は交響曲9、ピアノ協奏曲5、オペラ『フィデリオ』、ミサ曲2、弦楽四重奏曲16、ピアノ用ソナタ32。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

カーリル(ハリール)・ジブラーン
ジブラーン・ハリール・ジブラーン Jibrān(Gibrān) Khalīl Jibrān(Gibrān)

1883.01.06生~1931.04.10没
アラブの文学者、画家。幼時に母とアメリカに移り、ボストンに住んだ。1908~10年パリに留学して絵を学んだのちニューヨークに居住。アラビア語、フランス語、英語を通じての教育を兼ねそなえ、英語での著述も少なくない。もともとロマン派のクリスチャンだったが、臨終にあたりカトリックを捨てた。短編集に『反逆する魂ども al-Arwāh al-mutamassidah』(1910)と『草原の花嫁たち 'Arā' is al-murūj』(20)があり、どちらもアラビア語版と英語版とがある。作風は哲学的で詩情に富み、アラブ近代文学への貢献が大きい。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

スーザン(スザンヌ)・サマーズ Suzanne Somers

スザンヌ・ソマーズ(本名:スザンヌ・マリー・マホニー、1946年10月16日生まれ)はアメリカの女優、作家、歌手、企業家、健康演説家。テレビドラマ『Three's Company』のクリシー・スノウ役、『Step by Step』のキャロル・ランバート役で知られる。
ソマーズはその後著者となり、『Ageless: The Naked Truth About Bioidentical Hormones』(2006)など一連の自己啓発ベストセラー本を発表。自伝2冊、ダイエット本4冊、詩集1冊を出版した。
医学的問題に対する見解とワイリー・プロトコル(「科学的に証明されておらず危険」とされている)の主張において非難され続けてきた。現在のがん治療に代わる手段の煽動が自然療法関係者からは支持され、アメリカがん協会からは批判されている。
  ──ウィキペディア英語版(https://en.wikipedia.org/wiki/Suzanne_Somers)より翻訳・抜粋

エイブラハム・リンカーン Abraham Lincoln

1809.02.12生~1865.04.15没
アメリカの政治家。第16代大統領(在任1861~65)。ケンタッキー州の農民の子として生れ、インディアナ州、次いでイリノイ州に移り、ニューセーレムで商店の経営、測量士などさまざまな仕事をしながら独学で法律を勉強、1836年弁護士の資格を取得してスプリングフィールドで開業。34~40年ホイッグ党イリノイ州議会議員となり、46年連邦下院議員に当選、一期(47~49)をつとめて引退。54年カンザス=ネブラスカ法の成立に憤激して政界復帰を決意し、共和党の結成に参加。58年S.ダグラスを敵として連邦上院議員候補となり、敗北はしたが7回にわたって行われた「リンカーン=ダグラス論争」によって全国的に有名となった。60年共和党の大統領候補に指名され、当選。南北対立の激化を前にリンカーンは連邦の維持を政策目的として努力したが、61年4月には南北戦争が開始された。戦況は初め北軍に不利であったが、62年9月戦況が好転しはじめた。同月22日奴隷解放予備宣言を公布、63年1月1日に奴隷解放宣言を発布し、反乱状態にある南部諸州の奴隷解放を宣言。軍事的に後方攪乱をはかるとともに北部、あるいは海外の世論を味方につけ、南部連合側とイギリスの同盟をはばんだ。戦争中の64年大統領選挙で再選。戦争が終りに近づくにつれ、寛大な措置による南部の早期連邦復帰を計画したが、南軍R.リー(1807~1870)将軍降伏(1865.04.09)後、65年4月14日フォード劇場で観劇中、南部人俳優J.ブース(1838~1865)によって撃たれ、翌朝死亡した。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』


いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。


余談ですが、今回、精神分析学博士のカール・A・メニンガー Karl Augustus Menningerさんを調べるのに苦労しました。
ネットで検索してもヒットせず、図書館の人名事典、百科事典を数冊あたって、ようやく見つけました。
外国人の名前はスペルがわからないと、調べようがありませんね。
ネットで検索する際、見当をつけて「Carl Meninger」としていましたが、まさか「Karl」だとは思いもよりませんでした。(ドイツ系の家系なんでしょうか?)
以前『クレオパトラ Kleopatra』という本を見かけたとき、どうして“Cleopatra”じゃないのか不思議に思ったことがありました。
(ちなみに“Kleopatra”はギリシャ語的表記、“Cleopatra”はラテン語的表記だそうです。ラテン語表記のほうが圧倒的多数ですが。)
このメニンガー氏も見つからないのも道理。
逆に、アルファベット表記の日本人名や地名(他の漢字文化圏の人・土地も同様)では見つけにくい、見つかったとしても目当ての人かどうかわからない、ということですね。
(例えば、TAJIMAが「田島」「田嶋」「但馬」「多嶋」「多島」と、同じ音でも漢字は様々、さらには「嶌」の字を使う場合もありますから。)
今回の経験から、今後は極力、日本語表記とアルファベット表記を併せて使おうと思います。

自分自身をいたわるために・1


竹内まりやさんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
お気に入りの一言を見つけてください。


ムリエル・スパーク Muriel Sarah Spark

1918.02.01生~2006.04.13没
イギリスの作家。中央アフリカ連邦(ローデシア=ニアサンドラ連邦)で数年を過ごしたのち、第2次世界大戦中は外務省情報部に勤務。戦後、詩誌の編集にあたる。初の長編『慰めるものたち The Comforters』(1957)以来、『死を忘れるな Memento Mori』(1959)、『ペカム・ライ奇譚 The Ballad of Peckham Rye』(1960)、『ミス・ブロディの青春 The Prime of Miss Jean Brodie』(1961)、『マンデルバウム・ゲイト The Mandelbaum Gate』(1965)、『運転席 The Driver's Seat』(1970)、『引継ぎ The Takeover』(1976)など多作で、作風もユーモアに富んだファンタジーから、カトリック意識の横溢する深刻な小説まで幅広い。
  ──『ブリタニカ国際大百貨事典』


ラ・フォンテーヌ Jean de La Fontaine

1621.07.08生~1965.04.13没
フランスの詩人。モリエール、ラシーヌ、ボアローと親交を結び、彼らとともにルイ14世治下のフランス古典主義文学の黄金時代を築いた。主著は12巻からなる『寓話詩 Fables』(1668~94)およびボッカチオらに取材した官能的な韻文物語集『風流譚 Les Contes et Nouvelles en vers』(64~74)。「新旧論争」においては古代派に属したが、ギリシア・ラテンの作家を奴隷的に模倣することは慎むべきであると説いた。ほかに、長詩『アドニス Adonis』(58)、詩を交えた散文小説『プシシェとキュピドンの恋 Les Amours de Psyché et de Cupidon』(69)など。
  ──『ブリタニカ国際大百貨事典』


禅 zen

サンスクリット語dhyānaの音写で禅那とも書かれる。「禅」の原義は、(天子が)神を祀る、(位を)譲る、などで、これを仏教がかりたのである。姿勢を正して坐して心を一つに集中する宗教的修行法の一つ。インドでは古くから行われていたが、仏教の基本的修行法に取り入れられて中国に伝わり、禅宗として一宗派を形成した。宗祖はインド僧菩提達磨(?~528)とされるが、宗派として成立したのは6祖慧能(えのう 638~713)からで、その跡を継ぎ中国禅宗五家が成立。このうち宋代には臨在、雲門の2宗が栄え、臨済宗は公案を手段とする看話禅(かんなぜん)を鼓舞し、雲門の系統をひく曹洞宗は正身端坐の坐禅を重視する黙照禅を説いた。日本には鎌倉時代に栄西により臨済宗、道元により曹洞宗が伝えられ、江戸時代には中国僧隠元により明代の念仏禅、黄檗宗が伝えられた。また江戸時代の白穏は公案を整理し、現在の臨済宗諸派の修業の基礎を築いた。禅思想はインド仏教の般若、空の思想が老荘思想を精神的風土とする中国で変容され定着したもので、坐禅の実践による人間の本性の直観的な把握を主張し、華道、茶道、書道、絵画、造園、武芸などの日本文化にも影響を与え、さらに最近は急速に海外からの関心を集めつつある。
  ──『ブリタニカ国際大百貨事典』


シャーリー・アボット Shirley Abbott (Shirley Jean Abbott Tomkievicz)

(シャーリー・ジーン・アボット・トムキーヴィッツ Shirley Jean Abbott Tomkievicz)
シャーリー・ジーン・アボット・トムキーヴィッツ(1964年9月12日、イラストレーターのアレクサンダー・トムキーヴィッツとの婚姻による)は1934年11月16日、ホット・スプリングス生まれの雑誌編集者、作家。3巻におよぶ自伝で名声を得た。自伝では家族の歴史とホット・スプリングス(ガーランド郡)に来た年のことなどが詳細に語られれている。『 Womenfolks: Growing Up Down South』(1983)、『 The Bookmaker’s Daughter: A Memory Unbound』(1991)、『 Love’s Apprentice: The Education of a Modern Woman』(1998)の構成になっており、シャーリー・アボット名義で執筆された。批評家は、自身の人生のみならず転換期の南部の姿を描いた調査記録としてよく書けていると賞賛した。現在はニューヨーク在住のアボットだが、アーカンソーについて広く知らしめるため雑誌および新聞に書き続けている。かつて「南部人として生まれたことで、歴史を敬い愛することを学びました。限定的な土地の出身であること、その土地の理解を求めることは作家の想像力のたまものです」と語った。
アルフレッド・B・”ハット”・アボットとヴェルマ・ロイド・アボットの唯一の子供である。
  ──The Encyclopedia of Arkansas History & Culture (http://www.encyclopediaofarkansas.net/encyclopedia/entrydetail.aspx?entryID=1023), Ellen Compton (University of Arkansas, Fayetteville)による記事を翻訳・抜粋

ヘレン・ガーリー・ブラウン Helen Gurley Brown

1922.02.18日-2012.08.13日
アメリカ・アーカンソー州出身の作家、編集者。約32年間にわたり雑誌「COSMOPOLITAN(コスモポリタン)」の編集長を務めた人物であり、文芸中心の家庭向け総合雑誌だった同誌をファッション雑誌に方向転換し、世界100カ国以上の国・地域に流通する人気雑誌にまで育て上げた。(参考文献:ウィキペディア+Amazon.co.jp)
  ──地球の名言(http://earth-words.org/archives/4925)


アルフレッド・テニソン Alfred Tennyson

1809.08.06生~1892.10.06没
イギリスの詩人。ケンブリッジ大学在学中『ティンバクトゥー Timbactoo』(1829)で学長牌を獲得、『抒情詩集 Poems, Chiefly Lyrical』(1830)を出版。中退後、親友A.ハラムとヨーロッパ大陸を旅行。『詩集 Poems』(1832)、2冊版『詩集 Poems』(1842)、『王女 The Princess』(1847)、ハラム追悼の詩『イン・メモリアム In Memorium』(1850)などを相次いで出版、1850年ワーズワス(1770~1850)のあとをうけて桂冠詩人となった。その後も『モード Maud』(1855)、『国王牧歌 Idylls of the King』(1859)、『イノック・アーデン Enoch Arden』(1864)のほか、多くの詩劇を書いた。流麗な措辞と健全な倫理観によって、ビクトリア朝を代表する詩人と認められる。
  ──『ブリタニカ国際大百貨事典』


シャーリー・マクレーン Shirley MacLaine

1934.04.24生~
アメリカ合衆国の女優、ダンサー。本名Shirley MacLean Beaty。女優業に加え率直な発言と神秘主義や輪廻転生への傾倒でも注目を集める。弟は俳優のウォーレン・ビーティ。3歳からバレエを習い始め、高校卒業後はニューヨークでダンサーやモデルとして働いた。1954年ブロードウェー・ミュージカル『パジャマゲーム The Pajama Game』のコーラスガール、および準主役であるキャロル・ヘイニーの代役として出演、映画プロデューサーのハル・ウォリスの目に留まった。アルフレッド・ヒッチコック()監督の『ハリーの災難 The Trouble with Harry』(1955)で映画デビュー。中世的かつセクシーな独特の容姿と、売春婦などの俗っぽい役柄に純真さを見え隠れさせる演技力で人気を獲得し、『アパートの鍵貸します The Apartment』(1960)、『あなただけ今晩は Irma la Douce』(1963)など出演作を重ねた。『愛と喝采の日々 The Turning Point』(1977)では家族のために仕事をあきらめた元バレリーナの葛藤を好演。『愛と追憶の日々 Terms of Endearment』(1983)では気難しい母親を演じ、アカデミー賞主演女優賞を受賞した。芸能生活や交友関係、精神世界について語った『風を追いかけて Don't Fall off the Mountain』(1970)などの著作がある。
  ──『ブリタニカ国際大百貨事典』


エラ・ウィーラー・ウィルコックス Ella Wheeler Wilcox

エラ・ウィーラー・ウィルコックス(英: Ella Wheeler Wilcox、1850年11月5日-1919年10月30日)は、アメリカ合衆国の著作家、詩人である。その最も良く知られた作品は『Poems of Passion』(情熱の詩)である。不朽の名作と言えば、「貴方が笑えば、世界は貴方と共に笑う。貴方が泣くとき、貴方は一人で泣く。」という節がある『Solitude』(孤独)である。自叙伝『The Worlds and I』(世界と私)はウィルコックスが死ぬ1年前の1918年に出版された。
  ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9


フィリス・ディラー Phyllis Diller

フィリス・ディラー(Phyllis Diller, 1917年7月17日 - 2012年8月20日)は、アメリカ合衆国の女優、声優、コメディエンヌである。
1917年にオハイオ州ライマに生まれる。父親は保険代理店で働いていた[1]。地元の高校を卒業後、音楽系の学校でピアノを習得し、Bluffton Universityへ編入学した[1]。1952年にカリフォルニア州のローカルラジオでキャリアをスタート。同年にテレビ番組『Phyllis Dillis, the Homely Friendmaker』もスタートし、活動の場をサンフランシスコへ移し、ラジオを中心にキャリアを重ねていった。
サンフランシスコではスタンダップコメディの分野でも活躍し、知名度を得ていくと、1961年に『草原の輝き』で映画デビュー。1966年から放送されたコメディドラマ『The Pruitts of Southampton』や1969年から放送されたコメディラブドラマ『恋愛専科』などへはレギュラー出演もし、その後もコミカルな演技でキャリアを重ね、数々の映画やテレビに出演して女優としての地位を確立した。1990年以降はアニメーションの声優としても活躍し、ピクサーが製作した『バグズ・ライフ』などへは女王アリの声も担当。晩年は数々の人気テレビアニメシリーズの声のゲスト出演も果たしている。近年ではテレビシリーズ『ザ・ボールド・アンド・ザ・ビューティフル』でも知られていた。
  ──ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%BC
いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。


2016年9月9日金曜日

すみません

いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。
現在、ブログの更新が滞っております。
申し訳ありません。
早急に更新したいのはやまやまなんですが、体調不良もあり、思うようにはかどりません。
なるべく早く「自分をいたわるために」の記事をアップしますので、今しばらくお待ちください。
ご理解のほど、よろしくお願いします。

2016年9月1日木曜日

自分自身をいたわるために



悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときは、どうしても自分を責めてしまいがち。
でもそれは逆効果だったりするんですよね。
いつだって他人は責めてくれるのだから、自分自身にはいたわりの気持ちで接してあげることが、立ち直る力になるんです。
頑張らずに、背伸びせずに、ありのままの自分の受け入れること、落ち込んでいても、自信をなくしていても、悲しくても、それもあなたであることを認めること。
何もしなくても時間が解決してくれますから。

でも、ちょっとだけ前向きに考えたかったら、この動画で紹介している言葉を繰り返してみてください。
きっと元気になれるはず。

ということで、BGMは、女心を唄わせたらピカイチの竹内まりやさん『元気を出して』オルゴール(歌なし)バージョンです。
オルゴールのポロロンとした音色は心地よく感じさせる効果があるそうですよ。

写真はAC Worksさん提供のものです。

動画中に使用した名言は、バンビス・スノーフラワー編著『失恋のおくすり』(アスペクト・2013/02発売)という本から抜き出しました。
もともとは著者のブログ(現在では閲覧不可)を出版したようですが、その名の通り、失恋して悶々としている女性(男性も失恋はしますが、文章を見るかぎり、女性に対して書かれたものであろうと推測します)に向けた“元気になる”言葉の数々です。
何も失恋に限って有効だとは思われないので、人生全般にあてはまりそうです。

次回からは動画毎にそれぞれの名言の発話者の経歴を見ることにしましょう。

冒頭の動画は再生リストに登録した全12本をまとめてご覧いただけるものです。
個別のリンクは ↓↓↓↓(タイトルをクリックしてください。)

【癒し HEALING】自分自身をいたわるために・1

【癒し HEALING】自分自身をいたわるために・2

【癒し HEALING】自分自身をいたわるために・3

【癒し HEALING】自分自身をいたわるために・4

【癒し HEALING】自分自身をいたわるために・5

【癒し HEALING】自分自身をいたわるために・6

【癒し HEALING】自分自身をいたわるために・7

【癒し HEALING】自分自身をいたわるために・8

【癒し HEALING】自分自身をいたわるために・9

【癒し HEALING】自分自身をいたわるために・10

【癒し HEALING】自分自身をいたわるために・11

【癒し HEALING】自分自身をいたわるために・12

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