2016年10月19日水曜日

心を整え人生を豊かにする哲学者たちのことば 03.キルケゴール S. A. Kierkegaard



通常、名言集の類は作者ごとにまとめることはあまりなく、その内容による分類が多いと思います。
ですが、ここでは哲学者の言葉を一人ずつ動画にしてみました。
哲学名言研究会・編著の『心を整え人生を豊かにする哲学者たちのことば』(笠倉出版社 2012年)から抜き出しています。

時代の新しい人から、回を重ねるたびに年代を遡るかたちの並びです。

音楽はHURTRECORDさん(http://www.hurtrecord.com/)。
著作権フリーBGM配布サイト HURT RECORD 応援バナー
もう何度も使わせていただいてます。
イメージとしては「宇宙」らしいのですが、なんとなく哲学的な響きだったので、この曲にしました。

背景の幾何学模様のグラフィックは、デザイン素材を扱う海外サイト、DEALJUMBO (www.dealjumbo.com/)からダウンロードしたもので、Cruzine Designさんの作です。
文字数が多いものが多く、写真だとほとんど隠れてしまいますし、ベタの一色では味気ない気がしたので。

では、それぞれの哲学者の経歴をかいつまんでみましょうか。

セーレン・オービエ・キルケゴール Søren Aabye Kierkegaard

1813.05.05生~1855.11.11没
研究分野:キリスト教、形而上学
主な概念:不安、単独者、存在

デンマークの哲学者、神学者。現代実存哲学の創始者。プロテスタンティズムの革新的思想家として知られる。コペンハーゲン大学で神学を学んだ。父の死後(1838)本格的研究を決心、1840年17歳のレギーネ・オルセンと婚約したが、翌年破棄した。41年ベルリンでF.シェリングの講義を聞き、42年帰国、著作活動を始めた。哲学的にはヘーゲル、シェリングの観念論の批判から出発し、「単独者」「主体性」などの概念を中心にして実存論的思索を展開した。神学的には当時のデンマークの教会のあり方を攻撃し、教会的キリスト教の変革を説き、信仰と実存の問題を深く掘下げた。主著
『あれか、これか Enten-Eller』(43)、『おそれとおののき Frgyt og Baeben』(43)、『反復 Gjentagelsen』(43)、『不安の概念 Begrebet Angest』(44)、『人生行路の諸段階 Stadier paa Livets Vei』(45)、『死に至る病 Sygdommen til Døren』(49)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

「心を整え人生を豊かにする哲学者たちのことば」シリーズ(全12本)すべてをまとめてご覧になりたい方はコチラからどうぞ。

2016年10月18日火曜日

心を整え人生を豊かにする哲学者たちのことば 02.マルクス K. H. Marx



通常、名言集の類は作者ごとにまとめることはあまりなく、その内容による分類が多いと思います。
ですが、ここでは哲学者の言葉を一人ずつ動画にしてみました。
哲学名言研究会・編著の『心を整え人生を豊かにする哲学者たちのことば』(笠倉出版社 2012年)から抜き出しています。
時代の新しい人から、回を重ねるたびに年代を遡るかたちの並びです。

 心を整え人生を豊かにする哲学者たちのことば

音楽はHURTRECORDさん(http://www.hurtrecord.com/)。
著作権フリーBGM配布サイト HURT RECORD 応援バナー
もう何度も使わせていただいてます。
イメージとしては「宇宙」らしいのですが、なんとなく哲学的な響きだったので、この曲にしました。

背景の幾何学模様のグラフィックは、デザイン素材を扱う海外サイト、DEALJUMBO (www.dealjumbo.com/)からダウンロードしたもので、Cruzine Designさんの作です。
文字数が多いものが多く、写真だとほとんど隠れてしまいますし、ベタの一色では味気ない気がしたので。

では、それぞれの哲学者の経歴をかいつまんでみましょうか。

カール・ハインリヒ・マルクス Karl Heinrich Marx
1818.05.05~1883.03.14
研究分野:科学的社会主義、共産主義
主な概念:科学的社会主義の共同創設者(フリードリヒ・エンゲルスと共に)、史的唯物論。剰余価値、労働者の搾取、階級闘争、『資本論』

ドイツの経済学者、哲学者、革命指導者、科学的社会主義の創始者。中流のユダヤ人弁護士の家庭に生れ、ボン大学、ベルリン大学で法律、哲学を学び、1841年イェナ大学で博士号を取得。42年ケルンの急進的ブルジョアの機関誌“Rheinische Zeitung”の主筆となったが、43年パリに移住、44年共同で“Deutsch-Franösische Jahrbücher”を発行。F.エンゲルス(1820~1895)と出会い、社会主義的傾向を深めた。47年共産主義者同盟に参加、48年エンゲルスとともに『共産党宣言』を執筆し、唯物史観を確立。三月革命に際してはケルンで“Neue Rheinische Zeitung”を発行してドイツの革命運動の促進をはかったが挫折し、49年ロンドンに亡命。極度の貧困のなかで著作を続け、67年マルクス経済学を代表する『資本論 Das Kapital』の第1巻を発表。『資本論』のなかで最も印象的なのはイギリスの労働者階級の窮状についての記述である。第2巻、第3巻は彼の死後エンゲルスの手で編集され、85、94年に刊行された。マルクスの社会科学理論上最も重要な貢献は、剰余価値論を中核とした資本主義の経済分析にあるが、その透徹した社会分析は政治学、歴史学、社会学、哲学などをも包合する壮大な思想体系であるマルクス主義理論を形成している。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』


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2016年10月17日月曜日

心を整え人生を豊かにする哲学者たちのことば 01.ニーチェ F. W. Nietzsche



通常、名言集の類は作者ごとにまとめることはあまりなく、その内容による分類が多いと思います。
ですが、ここでは哲学者の言葉を一人ずつ動画にしてみました。
哲学名言研究会・編著の『心を整え人生を豊かにする哲学者たちのことば』(笠倉出版社 2012年)から抜き出しています。
時代の新しい人から、回を重ねるたびに年代を遡るかたちの並びです。
 心を整え人生を豊かにする哲学者たちのことば

音楽はHURTRECORDさん(http://www.hurtrecord.com/)。
著作権フリーBGM配布サイト HURT RECORD 応援バナー
もう何度も使わせていただいてます。
イメージとしては「宇宙」らしいのですが、なんとなく哲学的な響きだったので、この曲にしました。

背景の幾何学模様のグラフィックは、デザイン素材を扱う海外サイト、DEALJUMBO (www.dealjumbo.com/)からダウンロードしたもので、Cruzine Designさんの作です。
文字数が多いものが多く、写真だとほとんど隠れてしまいますし、ベタの一色では味気ない気がしたので。

では、それぞれの哲学者の経歴をかいつまんでみましょうか。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ Fredrich Wilhelm Nietzsche

1844.10.15~1900.08.25
研究分野:ギリシア哲学、文献学
主な概念:力への意思、君主・奴隷道徳、反キリスト、反アンチユダヤ主義、反国粋主義、運命愛、ルサンチマン

ドイツの哲学者。1869年バーゼル大学古典文献学教授となり、1870年普仏戦争に志願従軍、1879年健康すぐれず同大学の教授を辞任し、以後著述に専念したが、1889年精神病が昂じ、1900年に没した。アルツール・ショーペンハウアー(ショーペンハウエル)、リヒアルト・ワーグナーの影響を受け、芸術の哲学的考察から出発し、ディオニュソス的精神からの文化の創造を主張したが、しだいに時代批判、ヨーロッパ文明批判に向かい、特に最高価値を保証する権威とされてきたキリスト教や近代の所産としての民主主義を、弱者の道徳として批判し、強者の道徳として生の立場から新しい価値創造の哲学を、超人、永遠回帰、権力への意志、運命の愛(アモーレ・ファティ)などの独特の概念を用いて主張した。ニーチェの哲学はナチスに利用されたこともあったが、今日ではセーレン・A.キルケゴール(1813~1855)と並んで、実存哲学の先駆者、新しい価値論の提示者として新たに照明があてられている。日本では高山樗牛以来多くの人々により紹介、翻訳されている。主著『ツァラトゥストラはかく語りき Also sprach Zarathustra』(1883~85)、『権力への意志 Der Wille zur Macht』(1901)、『善悪の彼岸 Jenseits von Gut und Böse』(1886)、『道徳の系譜 Zur Genealogie der Moral』(87)など。
──『ブリタニカ国際大百科事典』


※今回のシリーズの動画に登場する人物名には該当の動画へのリンクを貼ってあります。

「心を整え人生を豊かにする哲学者たちのことば」シリーズ(全12本)すべてをまとめてご覧になりたい方はコチラからどうぞ。

2016年10月7日金曜日

自分自身をいたわるために・12



PHOTO: AC WORKS.CO.,LTD.

竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
お気に入りの一言を見つけてください。
この動画でご紹介している名言の発言者は以下のとおりです。

ラルフ・ウォルド(ワルド)・エマーソン Ralph Waldo Emerson

ラルフ・ウォルドー(ワルド)・エマーソン(Ralph Waldo Emerson [rælf ˈwɑːldoʊ ˈemərsən]、1803 年5 ⽉25 ⽇- 1882 年4 ⽉27 ⽇)は、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩⼈、エッセイスト。無教会主義の先導者。
Waldo はウォルドウ、ウォルド、ワルド、Emersonはエマソン、エマスンなどとも表記される(英語では、Emerson は第1 ⾳節にアクセントがある)。
アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに⽣まれる。18 歳でハーバード⼤学を卒業し21 歳までボストンで教鞭をとる。その後ハーバード神学校に⼊学し、伝道資格を取得し、牧師になる。⾃由信仰のため教会を追われ渡欧、ワーズワース、カーライルらと交わる。帰国後は個⼈主義を唱え、アメリカの⽂化の独⾃性を主張した。
エマーソンは次第に当時の宗教的社会的信念から離れ、1836 年の評論'Nature' において、超越主義哲学を世に打ち出した。続いて草分け的な仕事として1837 年に'The American Scholar' と題した演説を⾏い、オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアは、アメリカの「知的独⽴宣⾔」であると評した。
エマーソン主要な評論のほとんどを、まず講演⽤に書いてから出版⽤に改めた。最初の⼆つの評論集'Essays: First Series' と'Essays: Second Series' は、それぞれ1841 年と1844 年に出版された。それらは'Self-Reliance'、'The Over-Soule'、'Circles'、'The Poet'、'Experience' が含み、彼の思想の核⼼である。'Nature' とこれらの評論によって、1830 年代半ばから1840 年代半ばにかけての10 年間は、エマーソンにとって最も実り多い時期となった。
彼の評論は後の思想家、著述家、詩⼈に⼤きな影響を与えた。エマーソンは、⾃⾝の中⼼教義を⼀⾔にすると、「個⼈の無限性」であると語った。エマーソンはまた、共に超越主義者であるヘンリー・デイヴィッド・ソローの師であり友であることが有名である。

マルクス・アウレリウス Marcus Aureliusマルクス・アウレリウス・アントニヌス Marcus Aurelius Antoninus

121.04.26生~180.03.17没
第16代ローマ皇帝(在位:161年 - 180年)。ネルウァ=アントニヌス朝では第五代皇帝。第15代皇帝アントニヌス・ピウスの后妃ファウスティナ・マイヨル(大ファウスティナ)の甥で先帝の外戚にあたり、また大ファウスティナはハドリアヌスとトラヤヌスの傍系血族でもある。
外叔父アントニヌスの皇女で自身の従姉妹であるファウスティナ・ミノル(小ファウスティナ)と結婚して帝位を継承したが、共同皇帝としてハドリアヌスの重臣の子ルキウス・ウェルスが立てられていた。アウレリウスは小ファウスティナとの長女ルキッラを嫁がせて両皇帝の結束を固めたが、169年にウェルスが死んだ事で単独の皇帝となった。
ストア哲学などの学識に長け、良く国を治めた事からネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌスに並ぶ皇帝(五賢帝)と評された。対外政策ではパルティアとの戦争に勝利を収めたが、蛮族への予防戦争として始めたマルコマンニ人、クアディ人、サルマティア人などへの遠征(マルコマンニ戦争)は長期戦となり、国力を疲弊させ、自らも陣中で没した。
軍事よりも学問を好んだ皇帝という姿は、彼の著作である『自省録』への評価を通じて今日も維持されている。これはプラトンの時代から学識者にとって理想とされた「哲人君主」の実現例と見なされているからである。
また、後漢書に見られる安敦とは、彼のことだとされている。

パスカル Blaise Pascal

1623.06.19生~1662.08.19没
フランスの哲学者、科学者、数学者。23歳頃からヤンセニウス(1585~1638)の教えを奉じるポール=ロワイヤル修道院の厳格なキリスト教に心をひかれ、1654年秋の深い宗教的体験以後は熱烈な信仰生活に入った。56年から1年余の間、ポール=ロワイヤルとイエズス会との論争の渦中に身を投じ、一連の『プロバンシアル(いなかに住む人へ)Les provinciales』を偽名発表。その後はキリスト教弁証論の執筆に励んだが、未完のまま病没した。遺稿『パンセ Pensées』(1670)が主著。科学者、数学者としては「パスカルの原理」や「パスカルの定理」が有名。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

メロディー・ビーティー Melody Beattie

1948年ミネソタ州セント・ポール生まれ。メロディー・ビーティーはアメリカで最も愛されている自己啓発作家で、依存症からの回復の分野では身近な名前である。
世界的ベストセラー『Codependent No More』は1986年「共依存」問題を世界に紹介した。多くの読者が何をなすべきか自身が身を持って体験した知恵の言葉と導きを信頼してきた。
人生において、遺棄、誘拐、性的虐待、薬物およびアルコール依存症、離婚、わが子の死を乗り越えてきた。
24年に渡る作家としてのキャリアは15冊の本を生み出し、それらは20ヶ国語で出版され、新聞・雑誌の記事で何百と紹介された。国内では、オプラの番組をふくむ、数々のテレビにゲスト出演してきた。自身と作品は定期的にタイム、ピープルなど全国誌、世界でも有数の雑誌に取り上げられている。
  ──ホームページ(http://melodybeattie.com/about/)より翻訳・抜粋

ヨーゼフ・キルシュナー Josef Kirschner

1931~
ドイツのコンサルタント、作家。通訳、記者、雑誌編集長、広告業、ハーバード大学客員講師、ウィーン大学非常勤講師などを経て、スポーツ選手や政治家のコンサルタントとして活躍。またドイツで自己啓発本分野のベストセラーを多数執筆し、ヨーロッパ諸国をはじめ、多くの国で翻訳される。主著に『人に振りまわされずに生きる13の法則』などがある。
  ──『世界外国人名録2004』

シルヴィア・タウンゼント・ウォーナー Sylvia Townsend Warner

1893~1978
英国の小説家、詩人。多くの短編小説のほか、Lolly Willowes (1926), Summer Will Show (1936), The Corner That Held Them (1948) などがある。詩集としてしてはCollected Poems (1982)
  ──『リーダーズ英和辞典』
イギリスの小説家。ロンドンのハロー生まれ。音楽の研究家で、15世紀から16世紀にかけての音楽を研究、『チューダー朝教会音楽』(10巻、1923~29)の四人の編集者の一人である。7編の小説、4つの詩集、エッセイを出版、もともと『ニューヨーカー』誌に発表した作品を中心にまとめた短編集も8冊ある。作品の主題や舞台となる地域・時代は多岐にわたるが、重要な作品は『ローリー・ウィローズ』(1926)、『夏が来れば』(1936)、『彼らがいた場所』(1948)などである。
  ──『岩波=ケンブリッジ世界人名辞典』

ルナール Jules Renard

1864.02.22生~1910.05.22没
フランスの小説家、劇作家。1889年『メルキュール・ド・フランス Mercure de France』の創刊に参加、同誌に短編を寄稿、92年最初の長編『寄食者 L'Écornifleur』を発表。やがて貧困生活のなかにあって、あらゆる文学的誇張を拒否した簡明直截な筆致による写実的な小説に向い、名作『にんじん Poil de carotte』(1894)、『ぶどう畑のぶどう作り Le Vigneron dans sa vigne』(94)、ユーモアと詩情にあふれる短文形式の『博物誌 Histoires naturelles』(96)を発表、文名を確立した。その後、戯曲『別れも楽し Le Plasir de rompre』(97)、『日々のパン Le Pain de ménage』(98)などを執筆、『にんじん』の劇化(1900)は大好評を博した。後期の小説には『フィリップ家の人々 Les Philippe』(07)、『ラゴット Ragotte』(08)など。23年間にわたる『日記 Journal』(4巻、25~27刊)を残した。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

デカルト René Descartes

1596.03.31生~1650.02.11没
フランスの哲学者。1612年ラフレーシュのイエズス会系の学院を出、16年までポアティエ大学で法学を修めた。18年オランダに行き志願将校としてオランダ軍に入り、19年冬、幾何学に基づく万学統一の霊感を得た。20年軍籍を離れヨーロッパ各地を転々とし、29年以降オランダに隠棲、哲学研究に没頭。33年『宇宙論 Le Traité du monde』を完成したがガリレオ裁判の報に出版を中止。37年3つの試論とともに『方法序説 Discours de la méthode』を出版。41年形而上学の主著『省察録 Meditationes de prima philosophia』、44年『哲学原理 Principia philosophiae』を出す。晩年は論争に悩まされつつ、49年『情念論 Les passions de l'âme』を出し、女王クルスチアナに請われスウェーデンに行き、そこに没した。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

オクタヴィオ・パス Octavio Paz

1914.03.31生~1998.04.19没
メキシコの詩人、評論家、外交官。少年時代から詩作、1930年代には前衛的な『タリエル』誌に拠る詩人たちの中心的存在となった。アメリカ留学後、外交官として世界各地に勤務、特にパリではブルトン、B.ペレらのシュルレアリストと親交をもった。詩集には『激しい季節 La estación violenta』(1958)、『世界の岸辺で A la orilla del mundo』(42)、『言葉のかげの自由 Libertad bajo palabra』(49)、『火の精 Salamandra』(62)、『東斜面 Ladera este』(69)、『帰還 Vuelta』(76)があり、1963年ベルギーの国際詩大賞、82年セルバンテス賞、90年ノーベル文学賞を受賞。ほかに古典的なメキシコ文化論『孤独の迷路 El laberinto de la soledad』(50)をはじめ、『木に倚(よ)りて魚を求む Las peras del olmo』(57)、『四学 Cuadrivio』(65)、『回転する記号 Los signos en rotación』(65)、『大いなる文法学者の猿 El mono gramático』(74)など、多数の評論がある。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』


いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。

自分自身をいたわるために・9



PHOTO: AC WORKS.CO.,LTD.

竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
お気に入りの一言を見つけてください。
この動画でご紹介している名言の発言者は以下のとおりです。


クリスティナ・ロセッティ Christina Georgina Rossetti

1830.12.05生~1894.12.29没
イギリスの女流詩人。ロセッティ兄妹の末妹。処女詩集『妖魔の市 Goblin Market and Other Poems』(1862)でラファエル前派の作風を示し、その後『王子の旅 Prince's Progress』(66)、『歌の本 Sing-Song: a Nursery Rhyme Book』(72)、『新作詩集 New Poems』(96)などを発表。洗練された用語、確実な韻律法、温雅な情感がつくり出す詩境は、神秘的、宗教的な雰囲気を漂わせ、また長兄D.G.ロセッティと共通の色彩感や中世的要素が顕著で、イギリス女流詩人の最高峰に連なるもの。生涯に2度、信仰上の理由で結婚をあきらめ、恋愛詩の多くは愛の挫折の記録である。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

レッド・バーゼル(哲学者)

※ この人に関してはどうしても見つけられませんでした。
どなたかご存知の方がいらしたら、ご連絡いただきたいと思います。

ギルバート・キース・チェスタトン Gilbert Keith Chesterton

1874.05.29生~1936.06.14没
イギリスの批評家、小説家。H.ベロックと並ぶ、当代のカトリシズムの代表者。セント・ポール校を経てスレード美術学校で絵を、ロンドンのユニバーシティ・カレッジで文学を学んだのち、ジャーナリズムに入り、ユーモアに富んだ逆説や警句を駆使して、広い範囲にわたって健筆をふるい、G.B.ショー、H.G.ウェルズらと論争した。社会批評の領域では、土地再配分論の立場で『現世の欠点 What's Wrong with the World』(1910)を書き、文学批評の面では、『ブラウニング論 Robert Browning』(03)、『ディケンズ論 Charles Dickens』(06)、『ビクトリア朝文学論 The Victorian Age in Literature』(13)がある。また「進歩」思想に痛撃を加えた『正統とは何か Orthodoxy』(09)を書き、1922年カトリックに改宗、『アシジの聖フランシスコ St. Francis of Assisi』(23)、『永遠の人間 The Everlasting Man』(25)、『聖トマス・アクィナス St. Thomas Aquinas』(33)を著わした。その他、小説『ノッティング・ヒルのナポレオン The Napoleon of Notting Hill』(04)、短編集『木曜日の男 The Man Who Was Thursday』(08)、「ブラウン神父」が活躍する一連の推理小説(11~35)、詩、『自伝』(36)がある。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ラルフ・ウォルド(ワルド)・エマーソン Ralph Waldo Emerson

ラルフ・ウォルドー(ワルド)・エマーソン(Ralph Waldo Emerson [rælf ˈwɑːldoʊ ˈemərsən]、1803 年5 ⽉25 ⽇
- 1882 年4 ⽉27 ⽇)は、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩⼈、エッセイスト。無教会主義の先導者。
Waldo はウォルドウ、ウォルド、ワルド、Emersonはエマソン、エマスンなどとも表記される(英語では、Emerson は第1 ⾳節にアクセントがある)。
アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに⽣まれる。18 歳でハーバード⼤学を卒業し21 歳までボストンで教鞭をとる。その後ハーバード神学校に⼊学し、伝道資格を取得し、牧師になる。⾃由信仰のため教会を追われ渡欧、ワーズワース、カーライルらと交わる。帰国後は個⼈主義を唱え、アメリカの⽂化の独⾃性を主張した。
エマーソンは次第に当時の宗教的社会的信念から離れ、1836 年の評論'Nature' において、超越主義哲学を世に打ち出した。続いて草分け的な仕事として1837 年に'The American Scholar' と題した演説を⾏い、オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアは、アメリカの「知的独⽴宣⾔」であると評した。
エマーソン主要な評論のほとんどを、まず講演⽤に書いてから出版⽤に改めた。最初の⼆つの評論集'Essays: First Series' と'Essays: Second Series' は、それぞれ1841 年と1844 年に出版された。それらは'Self-Reliance'、'The Over-Soule'、'Circles'、'The Poet'、'Experience' が含み、彼の思想の核⼼である。'Nature' とこれらの評論によって、1830 年代半ばから1840 年代半ばにかけての10 年間は、エマーソンにとって最も実り多い時期となった。
彼の評論は後の思想家、著述家、詩⼈に⼤きな影響を与えた。エマーソンは、⾃⾝の中⼼教義を⼀⾔にすると、「個⼈の無限性」であると語った。エマーソンはまた、共に超越主義者であるヘンリー・デイヴィッド・ソローの師であり友であることが有名である。

ミゲル・デ・セルバンテス Miguel de Cervantes Saavedra

1547.10.09生~1616.04.23没
スペインの小説家。外科医の子に生れ、スペインやイタリアの各地を転々としたのち、レパントの海戦に参加して功績があったが、帰国の途中トルコ軍に捕らえられて5年間の虜囚生活をおくった。帰国後も投獄や破門を体験するなど、波乱に富んだ生活をおくりながら、1580年前後から創作を始め、1605年に『ドン・キホーテ Don Quixote』の前編、15年に後編を出して、「黄金世紀」の代表的な作家となった。ほかに、『模範小説集 Novelas ejemplares』(1596以前執筆)や、遺作となった『ペルシレスとシヒスムンダの苦難 Los Trabajos de Persiles y Sigismunda』(17)などの小説、『新作コメディア8編と新作幕間狂言8編 Ocho comedias y ocho entremeses nuevos』(15)などの劇作品、『パルナソの旅 Viaje del Parnaso』(14)などの詩作品がある。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

オプラ・ウィンフリー Oprah Gail Winfrey

オプラ・ゲイル・ウィンフリー(Oprah Gail Winfrey, 1954 年1 ⽉29 ⽇- )は、アメリカ合衆国の俳優、テレビ番組の司会者兼プロデューサー、慈善家である。司会を務める番組『オプラ・ウィンフリー・ショー』はアメリカのトーク番組史上最⾼の番組であると評価され、多数の賞を受賞して
いる。
彼⼥は20 世紀以降のアメリカで最も裕福なアフリカ系アメリカ⼈、かつては世界唯⼀の⿊⼈の億万⻑者であった。また、アメリカの歴史で最も偉⼤な⿊⼈の慈善家でもある。彼⼥はいくつかの評価によって、「世界で最も有⼒な⼥性」と称される。2006 年にバラク・オバマの初期の⽀援者になっ
た 。

バーバラ・デ・アンジェリス Barbara De Angelis

バーバラ・デ・アンジェリス(1951年3月4日、ペンシルバニア州フィラデルフィア生まれ)はアメリカの人間関係コンサルタント、講師、作家、TV司会者、人間関係と自己成長の助言者である。
デ・アンジェリスはロサンゼルスのシエラ大学で心理学の修士号を取得、カリフォルニア州サン・ラファエルにあったコロンビア・パシフィック大学(現在は廃校)で心理学の博士号を取得した。
デ・アンジェリスは3つの分野に渡り、14冊のベストセラー書籍を執筆している。そのうちには『How to Make Love All the Time』『Secrets About Men Every Woman Should Know』『Are You The One for Me?』『Real Moments』などがあり、いずれもニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーになっている。インフォマーシャル『Making Love Work』は1994年最優秀インフォマーシャルとして受賞した。
ロサンゼルス自己成長センターの創始者であり12年間代表を務めた。現在はシャクティ・コミュニケーション社の社長である。
デ・アンジェリスは生まれも育ちもフィラデルフィアで、1995の時点で5回結婚している。マジシャンのダグ・ヘニング、作家のジョン・グレイを含む配偶者たちは、結婚当時同伴者として、通信教育でコロンビア・パシフィック大学の非公式博士号を取得している。
  ──ウィキペディア英語版(https://en.wikipedia.org/wiki/Barbara_De_Angelis

チャック・スペザーノ Chuck Spezzano

心理学者、セラピスト。長年にわたるカウンセラーとしてのキャリアと心理学の研究を活かし、ビジョン心理学を確立、治療学的に見ても癒しの効果が高いと評価されている。セミナー主催、執筆などでも活躍。
  ──『現代外国人名録2004』

セーレン・キルケゴール Søren Aabye Kierkegaard

1813.05.05生~1855.11.11没
デンマークの哲学者、神学者。現代実存主義の創始者、プロテスタンティズムの革新的思想家として知られる。コペンハーゲン大学で神学を学んだ。父の死後(1838)本格的研究を決心、1840年17歳のレギーネ・オルセンと婚約したが、翌年破棄した。41年ベルリンでF.シェリングの講義を聞き、42年帰国、著作活動を始めた。哲学的にはヘーゲル、シェリングの観念論の批判から出発し、「単独者」「主体性」などの概念を中心にして実存論的思索を展開した。神学的には当時のデンマークの教会のあり方を攻撃し、教会的キリスト教の変革を説き、信仰と実存の問題を深く掘下げた。主著
『あれか、これか Enten-Eller』(43)、『おそれとおののき Frgyt og Baeben』(43)、『反復 Gjentagelsen』(43)、『不安の概念 Begrebet Angest』(44)、『人生行路の諸段階 Stadier paa Livets Vei』(45)、『死に至る病 Sygdommen til Døren』(49)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』


いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。



2016年9月28日水曜日

自分自身をいたわるために・11



PHOTO: AC WORKS.CO.,LTD.

竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
お気に入りの一言を見つけてください。
この動画でご紹介している名言の発言者は以下のとおりです。

セオドア・アイザック・ルービン Theodore Isaac Rubin

1923~
医師、作家、アメリカ精神分析学研究所所長。大学卒業後、アメリカ精神分析学研究所で学ぶ、のち所長となる。この間、精神科医として診療するかたわら、『Ladies' Home Journal』や『McCalls'』などへコラム執筆やテレビ出演などで活躍。精神障害に光をあてるフィクション、ノンフィクションと多数執筆。著書に『Compassion and Self-Hate』『Reconcilation』『リアル・ラブ』、短編集に『物語に閉じこもる少年たち』などがある。
  ──『世界外国人名録2004』

エウリピデス Eurīpidēs

紀元前485年頃生~紀元前406年没
ギリシア三大悲劇詩人の一人。ソフィストと自然哲学の影響を受け、伝統的悲劇を合理主義精神によって改革して、神話の世界を日常の世界にまで引降ろし、悲劇を人間情緒の世界と化した。競演における優勝は紀元前441年以来5回20編。現存作品はサチュロス劇1編と偽作1編とを含めて19編。主要作品『アルケスチス Alkēstis』(紀元前438上演)、『メディア Mēdeia』(紀元前431)、『ヒッポリュトス Hippolytos』(紀元前428)、『アンドロマケ Andromachē』、『ヘカベ Hekabē』、『ヘラクレス Hēraklēs』、『トロイアの女たち Trōiades』(紀元前415)、『救いを求める女たち Hiketides』、『エレクトラ Ēlektra』、『ヘレネ Helenē』(紀元前412)、『タウリスのイフィゲネイア Iphigeneia hē en Taurois』、『イオン Iōn』、『フェニキアの女たち Phoinissai』、『オレステス Orestēs』(紀元前408)、『バッコスの信女 Bakchai』(紀元前405)、『アウリスのイフィゲネイア Iphigeneia hē en Aulidi』(紀元前405)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ソフォクレス Sophoklēs

紀元前496/495年生~紀元前406年没
ギリシア三大悲劇詩人の一人。俳優を2人から3人に、コロスを12人から15人にふやし、背景に絵を使い、3部作形式をやめて1編ずつ独立させ、主役の性格と演技を重視するなど、悲劇に大改革を加えた。紀元前468年以来およそ120編作り、競演でも18~24回優勝。政治にも積極的に関与して将軍に選ばれたほか、たびたび要職についた。現存作品は『アイアス Aias』、『アンチゴネ Antigonē』(紀元前442上演)、『オイディプス王 Oidipus Tyrannos』(紀元前440)、『トラキニアイ Trāchīniai』、『エレクトラ Ēlektra』(紀元前418)、『フィロクテテス Philoktētēs』(紀元前409)、『コロノスのオイディプス Oidipous epi Kolōnōi』(遺作、紀元前401)。ほかに、サチュロス劇『イクネウタイ Ichneutai』の大断片もある。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ジャン・ド・ラ・ブリュイエール Jean de la Bruyere

ジャン・ド・ラ・ブリュイエール(仏: Jean de La Bruyère, 1645年8月16/17日 - 1696年5月10日/11日)は、フランスのモラリストであり作家である。
17世紀のフランスの宮廷人たちを描き、人生を深く洞察した著書『カラクテール』(フランス語: Les Caractères ou les Mœurs de ce siècle)(和訳: 『人さまざま』)(1688年)によって知られる。

エピクテトス Epiktētos

50頃生~?
ストア派の哲学者。初めネロの重臣の奴隷、解放されてからドミチアヌス帝による哲学者追放までローマで哲学を講じ、のちニコポリスにおもむく。弟子アリアノスによる『談話集』と『提要』があり、マルクス・アウレリウスらに影響を与えた。その学説は初期ストア派にほぼ同じで、さまざなまな専門的知識や技術、神の摂理、現世の苦痛に対する無関心と、人間として必要な哲学の意義を説き、人みな神の子という立場から博愛主義を唱えた。その哲学は意志の哲学であり、自己の支配能力が及ぶ意志的活動と、その権能外にある社会的なものとの区別を心得て、一切の苦悩から自由となり心の内に平静を獲得することをすすめている。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

スタンダール Stendhal

1783.01.23生~1842.03.23没
フランスの小説家。本名Marie-Henri Beyle。ナポレオンの第2回イタリア遠征に参加してイタリアの魅力を知る。1802年いったん除隊、1812年再びロシア遠征に加わる。ナポレオンの没落後イタリアに住み、芸術論や『恋愛論 De l'amour』(1822)を書く。1821年パリに戻り、小説『赤と黒 Le Rouge et le Noir』(1830)などを発表。七月革命後の1831年にイタリアのチビタベッキアの領事に任命され、自伝『エゴチスムの回想 Souvenirs d'égotisme』(1892刊)および『アンリ・ブリュラールの生涯 Vie de Henri Brulard』(1890刊)を書き、休暇中に7週間で傑作『パルムの僧院 La Chartreuse de Parme』(1839)を書き上げた。意志と情熱に満ちた人物たちの若々しい行動をむだのない文体で綴った彼の作品は、近代小説の傑作とされるが、生前には理解されなかった。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ジョン・ミルトン John Milton

1608.12.09生~1674.11.08没
イギリスの詩人。ケンブリッジ大学に学ぶ。年少にして詩人を志し、『キリスト降誕の朝にあたりて On the Morning of Christ's Nativity』(1629)、『快活な人 L'Allegro』(31)、『沈思の人 Il Penseroso』(31)、仮面劇『コーマス Comus』(34)、『リシダス Lycidas』(37)などの名作を書いた。1642年内乱勃発後の約20年間は議会派の論客として活躍、言論の自由を論じた『アレオパジティカ Areopagitica』(44)など多くの政治的、宗教的パンフレットを執筆、また不幸な結婚の経験に基づき『離婚論 The Doctrine and Discipline of Divorce』(43)を著わした。49年以後共和政府のラテン語秘書として活躍したが、52年に失明。王政復古(60)後は逆境におかれたが、詩作に精進し、イギリス文学史上最大の叙事詩『失楽園 Paradise Lost』(67)をはじめ『復楽園 Paradise Regained』、『闘士サムソン Samson Agonistes』(ともに71)を書き、シェークスピアに次ぐイギリス最高の詩人の地位を確立した。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』


いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。

自分自身をいたわるために・10



PHOTO: AC WORKS.CO.,LTD.

竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
お気に入りの一言を見つけてください。
この動画でご紹介している名言の発言者は以下のとおりです。

マルセル・プルースト Marcel Proust(作家)

1871.07.10生~1922.11.18没
フランスの小説家。父は医学博士、母はユダヤ系。幼年時代母と祖母に溺愛され、病的ともいえる鋭敏な感受性を示した。早くから上流社交界に出入りする一方、文学に熱中し、優雅な小品を雑誌に発表、ラスキンの芸術哲学に傾倒した。1903、05年に相次いで両親を失い、持病の喘息が悪化したことを契機に、コルク張りの部屋にほとんどこもりきりになって、7巻15冊から成る大河小説『失われた時を求めて À la Recherche du Temps Perdu』(1913~27)を著わした。この作品は、人間の内面の「意識の流れ」を綿密に追うことにより従来の小説概念を大きく変革し、20世紀フランス文学最高の傑作といわれている。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

アラン Alain

1868.03.03生~1951.06.02没
フランスの哲学者。本名Émile Auguste Chartier。各地の高校教授を歴任し、ルーアンでプロポproposと題する短文を新聞に毎日寄稿し、これがやがて彼の著作の様式の柱となった。やがてパリのアンリ4世高校教授となり、第1次世界大戦を予告し、開戦とともに一兵卒として従軍、戦場で『精神と情念に関する81章 Quatre-vingt-un chapitres sur l'esprit et les passions』(1917)、『芸術論 Système des beaux-arts』(20)を書いた。J.ラニョーの影響を受け、デカルトやスピノザに傾倒する合理主義者であるが、独断的体系を拒み、短文をもって人々の思索を促すモラリストであった。彼のいう理性は単に哲学の原理にとどまらず、生全体の根底となる良識であった。彼の著作は広い領域にわたり、哲学者のみならず文学者にも深い影響を残している。ほかの著作、『幸福論 Propos sur le bonheur』(28)、『イデー Idéés』(32)、『わが思索のあと Histoire de mes pensées』(36)など。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ユング Carl Gustav Jung

1875.07.26生~1961.06.06没
スイスの心理学者、精神分析学者。バーゼル大学で医学を修めたのちパリのピエール・M.F.ジャネのもとに留学。チューリヒ大学を経て1943年バーゼル大学教授。1948年チューリヒにユング研究所を設立。初め心霊現象などのオカルト研究に興味をもつ一方、ジグムンド・フロイト学説の熱心な支持者であったが、その後、A.メーダーと協同して、リビドーおよび無意識の概念について新しい展開を試み、分析的心理学を創始した。また、精神障害者の無意識を発見するために言語連想テストをつくり、コンプレックスの概念を考案した。主著『変容の象徴 Wandlungen und Symbole der Libido』(1912、改訂版Symbole der Wandlung 1952)、『タイプ論 Psychologische Typen』(1921)、『分析心理学への貢献 Contributions to Analytical Psychology』(1928)、『パーソナリティの統合 The Integration of the Personality』(1940)、『心理学と錬金術 Psychologie und Alchemie』(1944)、『空飛ぶ円盤 Ein Moderner Mythus』(1958)、『無意識の心理 Über die Psychologie des Unbewussten』(1960)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

アレクサンドル・デュマ Alexandre (Devy de la Paileterie) Dumas

1802.07.24生~1870.12.05没
フランスの小説家、翻訳家。デュマ・ペール(父)と呼ばれる。膨大な作品を書いたが、小説よりむしろ戯曲によって、ロマン派を代表する作家となった。小説はほとんどが共作者の助力を得たもので、なかでもオーギュスト・マケの力が大きい。『三銃士 Les Trois Mousquetaires』(1844)、『モンテ=クリスト伯 Le Comte de Monte-Christo』(44~45)、『黒いチューリップ La Tulipe noire』(50)などの歴史小説によって世界中に親しまれている。戯曲では、通俗的ともいえる筋書を、情熱的で動きのある大団円に導く舞台感覚に恵まれている。なかでも『アンリ3世とその宮廷 Henri III et sa cour』(29)は大成功を収めた。ほかに『アントニー Antony』(31)など。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ラルフ・ウォルド(ワルド)・エマーソン Ralph Waldo Emerson

ラルフ・ウォルドー(ワルド)・エマーソン(Ralph Waldo Emerson [rælf ˈwɑːldoʊ ˈemərsən]、1803 年5 ⽉25 ⽇- 1882 年4 ⽉27 ⽇)は、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩⼈、エッセイスト。無教会主義の先導者。
Waldo はウォルドウ、ウォルド、ワルド、Emersonはエマソン、エマスンなどとも表記される(英語では、Emerson は第1 ⾳節にアクセントがある)。
アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに⽣まれる。18 歳でハーバード⼤学を卒業し21 歳までボストンで教鞭をとる。その後ハーバード神学校に⼊学し、伝道資格を取得し、牧師になる。⾃由信仰のため教会を追われ渡欧、ワーズワース、カーライルらと交わる。帰国後は個⼈主義を唱え、アメリカの⽂化の独⾃性を主張した。
エマーソンは次第に当時の宗教的社会的信念から離れ、1836 年の評論'Nature' において、超越主義哲学を世に打ち出した。続いて草分け的な仕事として1837 年に'The American Scholar' と題した演説を⾏い、オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアは、アメリカの「知的独⽴宣⾔」であると評した。
エマーソン主要な評論のほとんどを、まず講演⽤に書いてから出版⽤に改めた。最初の⼆つの評論集'Essays: First Series' と'Essays: Second Series' は、それぞれ1841 年と1844 年に出版された。それらは'Self-Reliance'、'The Over-Soule'、'Circles'、'The Poet'、'Experience' が含み、彼の思想の核⼼である。'Nature' とこれらの評論によって、1830 年代半ばから1840 年代半ばにかけての10 年間は、エマーソンにとって最も実り多い時期となった。
彼の評論は後の思想家、著述家、詩⼈に⼤きな影響を与えた。エマーソンは、⾃⾝の中⼼教義を⼀⾔にすると、「個⼈の無限性」であると語った。エマーソンはまた、共に超越主義者であるヘンリー・デイヴィッド・ソローの師であり友であることが有名である。

アンソニー・トロコップ

※ おそらくアンソニー・トロロープ Anthony Trollopeの間違いだと思います。
動画はそのまま「アンソニー・トロコップ」としていますが、ここでは「アンソニー・トロロープ Anthony Trollope」の概略を記しています。

アンソニー・トロロープ Anthony Trollope

1815.04.24生~1882.12.06没
イギリスの小説家。ロンドンに生まれ極貧の家庭に育つ。郵便局に勤務しながら35年間に60巻の長編小説を書き、その間1日も公務を怠らなかったという精力家。その後西インド、北米、豪州、南アフリカに旅行し、それぞれの旅行記を発表。小説は健全な娯楽読物として非常な人気を博した。代表作『養老院長 Warden』(1855)、『バーチェスターの塔 Barchester Tower』(1857)、『医師ソーン Dr. Thorne』(1858)等。
  ──『新版・世界人名辞典 西洋編』

サマセット・モーム William Somerset Maugham

1874.01.25生~1965.12.16没
イギリスの小説家、劇作家。10歳のとき孤児となり、叔父の牧師館に引取られた。ドイツやフランスに遊学ののち、ロンドンで医学を学んだが開業せず、自然主義的な小説『ランベスのライザ Liza of Lambeth』(1897)で作家生活に入った。第1次世界大戦には軍医として従軍、のちに諜報活動に転じ、戦争末期には革命直後のソ連をたずねた。大衆性を重んじる多作家であるが、代表作は自伝的小説『人間の絆 Of Human Bondage』(1915)。ほかに『月と六ペンス The Moon and Sixpence』(19)、『お菓子とビール Cakes and Ale』(30)、『剃刀の刃 The Razor's Edge』(44)、短編集『木の葉のそよぎ The Trembling of a Leaf』(21)、戯曲『ひとめぐり The Circle』(21)、『おえら方 Our Betters』(23)などがある。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

孔子 Confucius(思想家)

紀元前551生~紀元前479没
中国、春秋時代の学者、思想家。儒教の祖。名は丘。字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。諡(いみな)は至聖文宣王。先祖は公族であったが家はきまめて貧しく、魯に使えて大司寇となったが権力者と衝突し、56歳から十余年間魯を去って諸国を歴遊し、諸侯に道徳的政治の実行を説いたが用いられず、晩年は魯で弟子の教育と著述に専念し、『春秋』やその他儒家の経典を著したと伝えられる。『論語』は彼とその弟子との言行録である。堯、舜、文王、武王、周公旦らを尊崇し、古来の思想を大成し、為政者の特によって民衆を教化する徳治主義を根幹とし、周の遺制たる礼楽制度による周への復古を説いた。その教えは、儒教として中国思想の根幹となり、後世に大きな影響を及ぼした。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』


いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。

2016年9月27日火曜日

自分自身をいたわるために・8


PHOTO: AC WORKS.CO.,LTD.

竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
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フリーチェ Vladimir Maksimovich Friche

1870.10.27生~1929.09.04没
ロシアの評論家。芸術を社会機構の法則から解明しようとする芸術社会学を主張。主著『ヨーロッパの文学発達史 Ocherk razvitiya zapadnykh literatur』(1906)、『芸術社会学 Sotsiologiya iskusstva』(26)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ジェームズ・アレン James Lane Allen

1849.12.21生~1925.02.18没
アメリカの作家。故郷ケンタッキー州を夢の世界としてロマン的な筆致で描いた。代表作『目に見えぬ聖歌隊 The Choir Invisible』(1897)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ショーペンハウエル Arthur Schopenhauer

1788.02.22生~1860.09.21没
ドイツの哲学者。厭世思想の代表者。父は銀行家、母は小説家で、幼時より父に伴われてイギリス、フランス、スイス、オーストリアを旅行した。父の死後、1809年ゲッティンゲン大学に入学、11~13年ベルリン大学でフィヒテの講義を聞いた。14年母とけんか別れをし、以後、終生、お互いに会おうとしなかった。20年ベルリン大学講師となったが、ベルリンの哲学界はヘーゲルの支配下にあり、まもなく辞任、以後、在野の学者として、22~31年イタリア、ミュンヘン、ベルリンに住んだのち、31年以降フランクフルトアムマインに定住、また生涯、独身を通した。彼はカントの思想から多くをくみ、みずからカントの後継者をもって任じたが、生前は不遇で、51年『付録と補遺 Parerga und Paralipomena』でようやく世間の注目を集めた。しかし19世紀末のヨーロッパにおいて、彼の主意説と、東洋ことにインドの仏教思想と相通じる独特の厭世観とは広く顧みられるにいたり、ニーチェ、ワーグナーらに大きな影響を与えた。1911年ショーペンハウアー協会が設立され、翌年から年報が刊行されている。主著『意志と表象としての世界 Die Welt als Wille und Vorstellung』(1819)、『自然における意志について Über den Willen in der Natur』(36)など。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

モーリス・センダック Maurice Bernard Sendak

モーリス・センダック(Maurice Sendak, 1928年6月10日- 2012年5月8日)は、アメリカ合衆国の絵本作家。世界中で約2000 万部売れた『かいじゅうたちのいるところ』をはじめ、80 冊を超える作品を発表し、現代絵本界を代表する存在である。このほか、アニメーション映画や舞台美術にもとりくんでいる。
アメリカの絵本作家、イラストレーター。ポーランドからの移民ユダヤ人の子として生まれる。アート・スチューデンツ・リーグの夜間部でグラフィックアートを学んだ後、絵本作家ウィリアム・ワイスガードとの出会いがきっかけとなり、独学で1950年頃から絵本を描き始める。52年『あなはほるもの おっこちるとこ』のイラストレーションを手がけて成功をおさめ、63年自作絵本『かいじゅうたちのいるところ』で絵本作家として不動の地位を築く。作品はほかに『まよなかのだいどころ』(70)、『まどのそとのまたむこう』(81)など。
  ──『現代外国人名録2004』

ロマン・ロラン Romain Rolland

1866.01.29生~1944.12.30没
フランスの小説家、劇作家。エコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)に学ぶ。民衆劇の理想を掲げて『7月14日 Le Quatorze-Juillet』(1902)などの歴史劇を書いたのち、『ベートーベンの生涯 Vie de Beethoven』(03)などの理想を追求してやまぬ天才たちの伝記を発表、ある音楽化の生涯を描く大河小説『ジャン=クリストフ Jean-Christophe』(04~12)によって世界的な名声を得た。ドイツ文化に深い理解を示し、第1次世界大戦に際しては、国際主義の立場からフランス、ドイツ両国の偏狭な愛国主義を批判する『戦いを超えて Au-dessus de la mêlée』(15)を発表、波紋を投げた。ほかに、ラブレー的な闊達さを示す小説『コラ・ブルニョン Colas Breugnon』(19)、大作『魅せられたる魂 L'Ȃme enchantée』(7巻、22~23)などがある。1915年ノーベル文学賞受賞。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ダライ・ラマ Dalai Lama

※ おそらく13世か14世のどちらかだと思うんですが、特定はできませんでした。
両方の概略を記しておきます。
ダライ・ラマ13 世(1876 年2 ⽉12 ⽇- 1933 年12⽉17 ⽇)は、第13 代のダライ・ラマ。法名をトゥプテン・ギャツォと⾔う。
ダライ・ラマ14 世(1935 年7 ⽉6 ⽇(チベット暦5 ⽉6 ⽇)- 、在位1940 年- )は、第14 代のダライ・ラマ である。法名はテンジン・ギャツォ(ワイリー⽅式:Bstan-'dzin Rgya-mtsho)。
1935 年、アムド地⽅(現在の⻘海省)の農家に⽣まれ、幼名をラモ・トンドゥプといった。4 歳の時にダライ・ラマ14 世として認定され、1940 年に即位、1951 年までチベットの君主の座に就いていたが、1959 年に中華⼈⺠共和国からの侵略と⼈権侵害⾏為に反発してインドへ亡命して政治難⺠となり、インドのダラムサラに樹⽴された中央チベット⾏政府(現「チベット⼈⺠機構」、通称「チベット亡命政府」)においてチベットの国家元⾸を務めている。亡命後は、法的には領する国⼟をもたない亡命政権の⻑という地位にありながら、世界中にちらばるチベット⺠族に対して政教両⾯において指導的⽴場にある⼈物と⽬されている。また、欧⽶でもチベット仏教に関⼼のある⼈や複数の著名⼈の⽀持を得、ノーベル平和賞を受賞したことでその国際的影響⼒はさらなる広がりを⾒せており、中国は別として世界的にはチベットの政治と宗教を象徴する⼈物とみなされるようになった。2011 年には、⾃⾝の政治的権限を委譲したいという意向を表明し、政府の⻑から引退することになった。これを承けた亡命チベット⼈憲章改定案では「チベット国⺠の守護者にして保護者であり、チベット⼈のアイデンティティと統合の象徴である」と規定され、ダライ・ラマがチベットの政教両⾯の権威者の座に即くというダライ・ラマ5 世以来の伝統を終わらせることになった。
世界的に著名な仏教指導者の⼀⼈であり、チベット仏教のゲルク派において最⾼位の仏教博⼠号(ゲシェ・ラランパ)を持つ僧侶である。歴史上のダライ・ラマはゲルク派の正式な⻑ではなく、ゲルク派の教勢が伸⻑して他派との摩擦が⽣じた時代に事実上の最⾼指導者となった学僧ゲンドゥンギャムツォ、そしてその転⽣者に認定されたスーナムギャムツォに始まる、ゲルク派の統合の象徴とされた転⽣系譜であったが、1642 年以降(ダライラマ五世の時代)、モンゴルなどを含むチベット仏教圏に影響⼒をもつ宗教的権威とチベットを統べる政治的権威とを兼ね備えた地位となった。⼀⽅、現在のダライ・ラマである14 世は亡命後にチベット⼈全体の政教両⾯の指導者とみなされるようになったが、この事態はそれまでのダライ・ラマとは異なり、ある種の政治的事情が背景にあるという意⾒もある。また、本⼈は「⾃分は⼀介の⽐丘にすぎない」と語ることが多い。世俗的な称号としては、パリ名誉市⺠、名誉博⼠(ニューヨーク州⽴⼤学バッファロー校)などがある。

スタンダール Stendhal

1783.01.23生~1842.03.23没
フランスの小説家。本名Marie-Henri Beyle。ナポレオンの第2回イタリア遠征に参加してイタリアの魅力を知る。1802年いったん除隊、1812年再びロシア遠征に加わる。ナポレオンの没落後イタリアに住み、芸術論や『恋愛論 De l'amour』(1822)を書く。1821年パリに戻り、小説『赤と黒 Le Rouge et le Noir』(1830)などを発表。七月革命後の1831年にイタリアのチビタベッキアの領事に任命され、自伝『エゴチスムの回想 Souvenirs d'égotisme』(1892刊)および『アンリ・ブリュラールの生涯 Vie de Henri Brulard』(1890刊)を書き、休暇中に7週間で傑作『パルムの僧院 La Chartreuse de Parme』(1839)を書き上げた。意志と情熱に満ちた人物たちの若々しい行動をむだのない文体で綴った彼の作品は、近代小説の傑作とされるが、生前には理解されなかった。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ヘレン・ガーリー・ブラウン Helen Gurley Brown

1922.02.18~2012.08.13
アメリカ・アーカンソー州出身の作家、編集者。約32年間にわたり雑誌「COSMOPOLITAN(コスモポリタン)」の編集長を務めた人物であり、文芸中心の家庭向け総合雑誌だった同誌をファッション雑誌に方向転換し、世界100カ国以上の国・地域に流通する人気雑誌にまで育て上げた。(参考文献:ウィキペディア+Amazon.co.jp)
  ──地球の名言(http://earth-words.org/archives/4925)


いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。



2016年9月26日月曜日

自分自身をいたわるために・7



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竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
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ヘンリー・デイヴィッド・ソロー Henry David Thoreau

1817.07.12生~1862.05.06没
アメリカの随筆家、詩人。ハーバード大学卒業後、エマソンを中心とする「超絶クラブ」の一員となり、機関誌『ダイアル』に寄稿する一方、1845~47年ウォールデン湖畔に小屋を建て、ほとんど自給自足の生活をした。この実験的生活の記録が『ウォールデン──森の生活 Walden, or Life in the Woods』(1854)で、超絶主義の主張の実践として、またエコロジー思想の先駆として後世に大きな影響を及ぼした。生前に出版した著書はこのほか『コンコード川とメリマック川の一週間 A Week on the Concord and Merrimack Rivers』(49)だけであったが、死後、1906年に刊行された全集は日記を中心に20巻を数え、ほかに『全詩集 Collected Poems of Henry Thoreau』(1943)、『書簡集 The Correspondence of Henry David Thoreau』(58)もある。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

アイザック・ディネセン Isak Dinesen (ブリクセン Karen Blixen)

1885.04.17生~1962.09.01没
デンマークの女流作家。イギリス、アメリカではIsak Dinesenの名で知られる。ディネセンは旧姓。父は軍人で作家。いとこのブリクセン男爵と結婚、美貌と才気で社交界の花形となったが、1914年ケニアに渡り、夫とも別れて山地で久しくコーヒー園を経営、それに失敗してから作家として立った。英語で書いた『7つのゴシック風物語 Seven Gothic Tales』(1934)が、怪異な題材と高踏的な香り高い文体で、たちまち彼女を謎の作家として有名にした。ほかに『アフリカから Out of Africa』(37)、『冬の物語 Winter's Tales』(42)、『草の上の影 Skygger på Græsset』(60)など。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ Lev Nikolaevich Tolstoi

1828.09.09生~1910.11.20没
ロシアの小説家。伯爵家に生れ、幼くして両親を失った。1847年カザン大学中退。故郷に帰り、農民の生活改革を試みたが失敗。51年カフカズで軍務についていた兄のもとに行き、美しい自然のなかで文学に開眼し、自伝3部作の『幼少時代 Detstvo』(1852)、『少年時代 Otrochestvo』(54)、『青年時代 Yunost'』(57)で新進作家としての地位を確立した。57年最初のヨーロッパ旅行に出、ヨーロッパ文明に対する懐疑をいだいた。62年結婚、文筆活動に専念し、二大名作『戦争と平和 Voina i mir』(63~69)『アンナ・カレーニナ Anna Karenina』(73~77)を完成した。宗教論文『懺悔 Ispoved'』(79、82加筆)や『イワンのばか Skazka ob Ivane-Durake』(85)をはじめとする民話を書き、のちに「トルストイ主義」と呼ばれた思想に忠実な活動を行い、私有財産の否定、非戦論、非暴力主義を唱えた。ほかに小説『イワン・イリイッチの死 Smert' Ivana Il'icha』(86)『クロイツェル・ソナタ Kreitserova Sonata』(91)『復活 Voskresenie』(89~99)、戯曲『闇の力 Vlast' t'my』(87)などの文学作品を書いたが、最後まで安らぎは得られず、1910年家出、リャザン=ウラル鉄道の小駅、アスターポボ(現在のレフ・トルストイ駅)の駅長官舎で没した。
  ──『ブリタニカ国際大百貨事典』

スティーブンソン Robert Louis Stevenson

イギリスの小説家、詩人、随筆家。エディンバラ大学卒業。若くして肺を病み、転地のため旅を重ね、1890年以後南太平洋のサモアに定住。旅行記に『内地舟行 An Inland Voyage』(1878)、『ろばを連れて Travels with a Donkey in the Cevennes』(79)があり、随筆では『若き人々のために Virginibus Puerisque』(81)が有名。小説には軽妙な短編集『新アラビアン・ナイト New Arabian Nights』(82)、冒険物語『宝島 Treasure Island』(83)、怪奇な寓話『ジキル博士とハイド氏 The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde』(86)などがある。童謡集『子供のうたの花園 A Child's Garden of Verses』(85)は彼の詩才を示し、書簡集にも魅力ある人柄がよく表われている。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ジョージ・ハーバート George Herbert

1593.04.03生~1633.03.01没
イギリスの詩人、聖職者。ハーバード・オブ・チャーベリーの弟。ケンブリッジ大学出身。名門出の俊英で、宮廷での活躍を期待されたが、「田舎司祭」として静かな生涯を終えた。死の直前友人ニコラス・フェラーに送って出版か焼却かをまかせた詩集『聖堂 The Temple』(1663)によって、宗教的形而上詩人としての不動の地歩を占めている。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

シラー Johann Christoph Friedrich Schiller

1759.11.10生~1805.05.09没
ドイツの劇作家、詩人。軍医の子として生れ、君主の命により軍人学校で法律や医学を学んだが、「シュトゥルム・ウント・ドラング」の吹荒れるなかで戯曲『群盗 Die Räuber』(1781)を執筆、マンハイムでの初演(82)の成功を機に、劇作家としてはなばなしい出発をとげた。以後各地を転々としつつ戯曲、思想詩、歴史評論などを次々に発表し文名を高めた。1789年からイェナ大学で歴史を講じ、99年末からはワイマールに居住。94年から没年まで続いたゲーテとの交友はドイツ古典主義となって結実した。シラーはゲーテとは対照的な資質をもち、人類の理想への情熱に燃えて短い生涯を激しく生抜いた。おもな戯曲に『たくらみと恋 Kabale und Liebe』(84)、『ドン・カルロス Don Carlos』(87)、3部作『ワレンシュタイン Wallenstein』(98~99)、『マリア・スチュアルト Maria Stuart』(1800)、『オルレアンの乙女 Die Jungfrau von Orleans』(01)、『ウィルヘルム・テル Wilhelm Tell』(04)など。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

スティーヴ・バウマン

※ 残念ながら、この人に関しては概略を見つけることはできませんでした。
引用句から検索しても、考えられるスペルで検索しても、だめでした。
ご存知の方、ご連絡ください。

アレグザンダー・ポープ Alexander Pope

1688.05.21生~1744.05.30没
イギリスの詩人、批評家。ドライデンと並ぶイギリス古典主義文学の代表的詩人。カトリックの富裕な家に生れたが、病気のため発育が著しく阻害された。伝統的な主題を完璧な技巧で処理して、田園詩、教訓詩、書簡詩、英雄詩などの形式を自由に駆使した。最も得意とする風刺詩では『愚人列伝 The Dunciad』(1728)が特に有名である。また当時の理神論に基づく哲学詩『人間論 An Essay on Man』(33~34)はこの時代特有の作品として注目すべきもの。ホメロスの翻訳(15~26)により大金を得て、テムズ河畔トウィックナムに広大な館を構え、文学者の経済的独立を達成した顕著な一例となった。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ウィリアム・ジェームズ William James

1842.01.11生~1910.08.26没
アメリカの哲学者、心理学者。いわゆるプラグマティズムの指導者。小説家H.ジェームズ(1843~1916)の兄。1861年ハーバード大学理学部へ入学、のち同大学の医学部へ移籍。67~68年ドイツに留学し、フランスの哲学者C.ルヌービエ(1815~1903)などの影響を受け、心理学、哲学に心をひかれた。69年卒業、学位を得たが開業せず、療養と読書に過した。72年ハーバード大学生理学講師。のち心理学に転じ、伝統的な思考の学としてではなく生理心理学を講じ、実験心理学に大きな貢献をした。また、ドイツの心理学者C.シュトゥンプ(1848~1936)を高く評価。さらに宗教、倫理現象の研究に進み、その後哲学の研究に入った。その立場は根本的経験論に基づく。そのほか、82年頃から心霊学に興味をもち、アメリカ心霊研究協会の初代会長をつとめた。主著『心理学原理 The Principles of Psychology』(1890)、『信ずる意志 The Will to Believe and Other Essays in Popular Philosophy』(97)、『宗教的経験の諸相 The Varieties of Religious Experience』(1901~02)、『根本経験論 Essays in Radical Empiricism』(12)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』


いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。

2016年9月25日日曜日

自分自身をいたわるために・6



PHOTO: AC WORKS.CO.,LTD.

竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
お気に入りの一言を見つけてください。
この動画でご紹介している名言の発言者は以下のとおりです。

シドニー・ガブリエル・コレット Sidonie-Gabrielle Colette

1873.01.28生~1954.08.03没
フランスの女流作家。20世紀前半の最も著名な女流作家の一人。20歳で40代の作家ウィリー(本名H. Gauthier-Villars)と結婚、夫のすすめで書いた少女時代を扱う自伝的小説『学校のクローディーヌ Claudine à l'école』以下4冊のクローディーヌ・シリーズ(1900~03)によって認められた。1906年離婚後、ミュージック・ホールの舞台に立ち、13年に再婚した。第1次世界大戦に記者として従軍、20年に五十女と17歳の若者の愛欲を描いた『シェリ Chéri』を出版、以降次々と傑作を発表。伝統的心理小説の手法を用いながら、鋭敏な感覚と洗練された感性で未知の領域を開拓した。主著『青い麦 Le Blé en herbe』(23)、『第二の女 La seconde』(29)、『牝猫 Chatte』(33)。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ Lev Nikolaevich Tolstoi

1828.09.09生~1910.11.20没
ロシアの小説家。伯爵家に生れ、幼くして両親を失った。1847年カザン大学中退。故郷に帰り、農民の生活改革を試みたが失敗。51年カフカズで軍務についていた兄のもとに行き、美しい自然のなかで文学に開眼し、自伝3部作の『幼少時代 Detstvo』(1852)、『少年時代 Otrochestvo』(54)、『青年時代 Yunost'』(57)で新進作家としての地位を確立した。57年最初のヨーロッパ旅行に出、ヨーロッパ文明に対する懐疑をいだいた。62年結婚、文筆活動に専念し、二大名作『戦争と平和 Voina i mir』(63~69)『アンナ・カレーニナ Anna Karenina』(73~77)を完成した。宗教論文『懺悔 Ispoved'』(79、82加筆)や『イワンのばか Skazka ob Ivane-Durake』(85)をはじめとする民話を書き、のちに「トルストイ主義」と呼ばれた思想に忠実な活動を行い、私有財産の否定、非戦論、非暴力主義を唱えた。ほかに小説『イワン・イリイッチの死 Smert' Ivana Il'icha』(86)『クロイツェル・ソナタ Kreitserova Sonata』(91)『復活 Voskresenie』(89~99)、戯曲『闇の力 Vlast' t'my』(87)などの文学作品を書いたが、最後まで安らぎは得られず、1910年家出、リャザン=ウラル鉄道の小駅、アスターポボ(現在のレフ・トルストイ駅)の駅長官舎で没した。
  ──『ブリタニカ国際大百貨事典』

ガブリエル・ロレンハーゲン(ロレンハジウス) Gabriel Rollenhagen (Rollenhagius)

1583年3月22日マクデブルグにて出生、1619年?マクデブルグにて没。
ドイツ人でローマカトリック教徒の詩人、作家および標章製作者である。
マクデブルグの有名な説教師および教師ゲオルグ・ロレンハーゲンを父として生まれた彼は、ゲラルテンシュール教父をはじめとして、優れた教育を受けた。1602年卒業生総代としてラテン語で告別演説を行ったが、その内容は1620年出版された。急逝の直後であった。1602年ライプツィヒに進学し、1604年まで法学を学ぶが、1605年からはライデンの大学で勉学を続けた。ダニエル・ハインシウスと知り合ったことで、高名な人文主義学者であるヒューゴ・グロティウスやヨゼフ・スカリガーらと交流することになる。1606年マクデブルグに戻ったが、ライデンでの初期作品集を世に出したツケを負っていたと思われる。粗野なドイツ語で卑猥なロマンティック・コメディを多数出版したりもしたが、見事な成功を収めもした。その名声は、1611年のバロック時代の紋章を数多く扱った『Nucleus Emblematum』によるところが大きい。ほかに『Amantes amentes』(1609)もある。
  ──ウィキペディアドイツ語版(https://de.wikipedia.org/wiki/Gabriel_Rollenhagen)の内容をGoogleで英語にしたものを翻訳・抜粋

メアリー・カサット Mary Cassatt

1844.05.22生~1926.06.14没
アメリカの女性画家、版画家。ペンシルバニア美術アカデミーに学んだのち、1868年からヨーロッパ各地を旅行し、パリに定住。旅行の際、アントウェルペンでドガ(1834~1917)に会い、以降長く教えを受ける。作品の中心テーマは母子像で、様式的にはドガや日本の版画の影響が強い。絵画のほかに多くのエッチング、木版画も制作。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』
※ 著述家のメアリー・カサットは見つかりませんでした。
もしかしたら誤りかもしれませんね。

ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー Henry Wadsworth Longfellow

1807.02.27生~1882.03.24没
アメリカの詩人。ボードゥン大学卒業。同級にホーソーンがいた。その後3年間のヨーロッパ留学を経て、母校の近代語学教授(1829~35)をつとめた。1835年再度ヨーロッパに渡り、ノバーリス(1772~1801)などドイツ・ロマン派の影響を受けた。帰国後ハーバード大学教授(36~54)。その詩は感傷性、教訓性が目立つがリズムにすぐれ、特に『エバンジェリン Evangeline』(47)、『ハイアワサ The Song of Hiawatha』(55)、清教徒軍人の恋を描く『マイルズ・スタンディッシュの求婚 The Courtship of Miles Standish』(58)などの長編物語詩は広く愛読された。そのほか、詩集『夜の声 Voices of the Night』(39)、『民謡 Ballads and Other Poems』(42)、物語詩『路傍の宿物語 Tales of a Wayside Inn』(63~73)、詩劇3部作『クリスタス Christus』(72)、ダンテ『神曲』の翻訳(65~67)など多数。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

シモーヌ・ド・ボーボワール Simone de Beauvoir

1908.01.09生~1986.04.14没
フランスの女流作家、評論家。実存主義文学の代表者の一人。ブルジョアの生れで、パリ大学文学部在学中にサルトル(1905~1980)を知り、生涯にわたる関係を結ぶ。1929年教授資格を取得、パリをはじめ各地のリセ(高等中学校)で教鞭をとったが、43年以降教壇を去り、哲学、政治、社会問題など多岐にわたる著作活動を続けた。小説には『招かれた女 L'Invitée』(1943)、『他人の血 Le Sang des autres』(44)、『レ・マンダラン Les Mandarins』(54、ゴンクール賞)があり、評論には『人間について Pyrrhus et Cinéas』(44)、『多義性のモラルのために Pour une morale de l'ambigüté』(47)、浩瀚な女性論『第二の性 Deuxième Sexe』(49)、『老い La Vieillesse』(70)。ほかに、旅行記『アメリカその日その日 L'Amérique au jour le jour』(48)、『長征 La Longue Marche』(57)、回想録『娘時代 Mémoires d'une jeune fille rangée』(58)、『女ざかり La Force de l'âge』(60)、『事物の力 La Force des choses』(63)などがある。66年サルトルとともに来日した。
   ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ウィリアム・シェイクスピア William Shakespeare(劇作家)

1564.04.26生~1616.04.23没
イギリスの詩人、劇作家。公式には4月23日が誕生日とされている。裕福な商人の長男として生れ、父は一時町長に選ばれたが、まもなく没落したため、彼は土地のグラマー・スクールに通っただけで、大学に進んだ形跡はない。18歳のとき8歳年長のアン・ハサウェーと結婚、1男2女を得たが、その後の数年間については伝記的資料が皆無のため種々の憶測が行われている。おそらく20歳を過ぎてまもなくロンドンに出て劇界に入り、俳優として出発、やがて劇作に転じたものと思われる。劇作は1590年頃から開始され、最初はバラ戦争を主たる背景とする『ヘンリー6世 Henry VI』(3部作1590~92)、『リチャード3世 Richard III』(93)、笑劇に近い喜劇『じゃじゃ馬ならし The Taming of the Shrew』(94)を書いていたが、94年宮内大臣お抱え一座の幹部座員となるに及んで偉大な劇作家としての本領を発揮しはじめ、『ロミオとジュリエット Romeo and Juliet』(95)、『夏の夜の夢 A Midsummer Night's Dream』(95)、『リチャード2世 Richard II』(95)などの抒情的な作品を発表、さらに愛の喜劇のなかにシャイロックの悲劇を描いた『ベニスの商人 The Merchant of Venice』(96)、フォールスタッフの登場で有名な『ヘンリー4世 Henry IV』(2部作97)、生の歓喜のなかにも生きることのさびしさや、ときには生の倦怠さえも暗示する『お気に召すまま As You Like It』(99)、最高の喜劇『十二夜 The Twelfth Night』(1600)を書いた。続く数年間は「悲劇時代」と呼ばれ、生と死、善と悪、罪と罰、仮象と真実など人間の根本問題をテーマとした『ハムレット Hamlet』(1600)、『オセロ Othello』(04)、『リア王 King Lear』(05)、『マクベス Macbeth』(06)の四大悲劇を創作した。1608年頃から許しと和解を主題にしたいわゆるロマンス劇に転じ、『シンベリン Cymbeline』(09)、『冬の夜ばなし The Winter's Tale』(10)、単独作としては最後の『あらし The Tempest』(11)を書いた。詩としてはサウサンプトン伯に捧げた物語詩『ビーナスとアドニス Venus and Adonis』(1593)、『ルクリースの凌辱 The Rape of Lucrece』(94)、英詩では最大にして最高の『ソネット集 Sonnets』(1609)などがある。天成の詩人であった彼は無韻詩を縦横に駆使して韻文劇を創作し、その内容の深さと相まって最高の戯曲をつくり出した。その伝記には不明な部分があるため、シェークスピアの実在に疑問をいだく説(たとえばシェークスピアはF.ベーコンの筆名であるという)もあったが、現在では顧みられない。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

シモーヌ・ヴェイユ (ヴェーユ/ヴァイユ) Simone Weil
シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)(Simone Weil, 1909
年2 ⽉3 ⽇パリ、フランス- 1943 年8 ⽉24 ⽇ロンドン、イギリス)は、フランスの哲学者である。⽗はユダヤ系の医師で、数学者のアンドレ・ヴェイユは兄である。
彼⼥は第⼆次世界⼤戦中にロンドンでほぼ無名のまま客死した(享年34 歳)。戦後、残されたノートの⼀部が知⼈の編集で箴⾔集として出版されるとベストセラーになった。その後もあちこちに残されていた膨⼤な原稿・⼿紙・ノート類を知⼈たちが編集・出版するにつれてその深い思索への評価は⾼まり、何カ国語にも翻訳されるようになった。遺稿は政治思想、歴史論、神学思想、労働哲学、⼈⽣論、詩、未完の戯曲、⽇記、⼿紙など多岐に渡る。

セネカ Lucius Annaeus Seneca
紀元前4年頃生~紀元後65年没
ローマ後期ストア派の哲学者。大セネカの息子。ローマでストア派のアッタルスに学ぶ。弁護士として成功したが一時ローマを追われ、のち皇帝ネロの師傅、執政官となる。その後ピーソの謀反に加担した嫌疑を受け自殺に追込まれた。彼はピタゴラス、プラトン、エピクロス、キュニコス派に多くの点で影響を受けつつ、ストア主義の正統を守って哲学を理性的存在である人間の唯一の目的、幸福、善としての徳の修練に結びつけ、倫理生活の根本原則は自然に従って生きることにあるとした。また、倫理的な神観念や神の意志である世界法則と人間性の同質性を強調し、ストア主義における理想主義的宗教的側面の形成に寄与した。それゆえ彼の思想はキリスト教護教家たちによっても福音書の倫理説などと比較研究されている。『道徳的書簡集 Epistulae morales』107中の詩の一句「導き給え、おお高き天空の支配者なる父よ、いずこなりと御心のままに。進みて我は従いまつらむ」にはストア派の学説の結末を形づくる賢者の像が象徴されているといえよう。著書は7巻の『自然論 Naturales quaestiones』など多数。ほかに悲劇9編がある。文体は弁論調で警句に富み、名文として後世まで親しまれた。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』

ニコラ・ボワロー Nicolas Boileau-Despréaux

1636.11.01生~1711.03.13没
フランスの詩人、批評家。『詩法 L'Art poétique』(1674)で、自然、理性、古代、芸術的完成の4つに対する崇拝を唱え、フランス文学の黄金時代を築いた古典主義文学の美学を不動のものにするとともに、ヨーロッパ諸国の文学にも影響を及ぼした。ほかに『風刺詩集 Satires』(66)、『書簡詩集 Épîtres』(69~77)がある。モリエール、ラシーヌ、ラ・フォンテーヌのよき忠告者としての功績も大きい。「新旧論争」では古代派の先頭に立ち、『ロンギノス考 Réflexions sur Longin』(94)を残した。
  ──『ブリタニカ国際大百科事典』


いかかでしたか?
世に名言を残す人というのは人生を濃く生きて、その経験から体感した言葉なのでしょうね。
見習うべきところが多そうです。
今回はシリーズ中の1本について、それぞれの発言者の概略を見てきましたが、他の名言もまとめてみたいという方はコチラからどうぞ。

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