ドイツの哲学者。1869年バーゼル大学古典文献学教授となり、1870年普仏戦争に志願従軍、1879年健康すぐれず同大学の教授を辞任し、以後著述に専念したが、1889年精神病が昂じ、1900年に没した。アルツール・ショーペンハウアー(ショーペンハウエル)、リヒアルト・ワーグナーの影響を受け、芸術の哲学的考察から出発し、ディオニュソス的精神からの文化の創造を主張したが、しだいに時代批判、ヨーロッパ文明批判に向かい、特に最高価値を保証する権威とされてきたキリスト教や近代の所産としての民主主義を、弱者の道徳として批判し、強者の道徳として生の立場から新しい価値創造の哲学を、超人、永遠回帰、権力への意志、運命の愛(アモーレ・ファティ)などの独特の概念を用いて主張した。ニーチェの哲学はナチスに利用されたこともあったが、今日ではセーレン・A.キルケゴール(1813~1855)と並んで、実存哲学の先駆者、新しい価値論の提示者として新たに照明があてられている。日本では高山樗牛以来多くの人々により紹介、翻訳されている。主著『ツァラトゥストラはかく語りき Also sprach Zarathustra』(1883~85)、『権力への意志 Der Wille zur Macht』(1901)、『善悪の彼岸 Jenseits von Gut und Böse』(1886)、『道徳の系譜 Zur Genealogie der Moral』(87)など。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』
フランスの小説家、劇作家。1889年『メルキュール・ド・フランス Mercure de France』の創刊に参加、同誌に短編を寄稿、92年最初の長編『寄食者 L'Écornifleur』を発表。やがて貧困生活のなかにあって、あらゆる文学的誇張を拒否した簡明直截な筆致による写実的な小説に向い、名作『にんじん Poil de carotte』(1894)、『ぶどう畑のぶどう作り Le Vigneron dans sa vigne』(94)、ユーモアと詩情にあふれる短文形式の『博物誌 Histoires naturelles』(96)を発表、文名を確立した。その後、戯曲『別れも楽し Le Plasir de rompre』(97)、『日々のパン Le Pain de ménage』(98)などを執筆、『にんじん』の劇化(1900)は大好評を博した。後期の小説には『フィリップ家の人々 Les Philippe』(07)、『ラゴット Ragotte』(08)など。23年間にわたる『日記 Journal』(4巻、25~27刊)を残した。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
デカルト René Descartes
1596.03.31生~1650.02.11没
フランスの哲学者。1612年ラフレーシュのイエズス会系の学院を出、16年までポアティエ大学で法学を修めた。18年オランダに行き志願将校としてオランダ軍に入り、19年冬、幾何学に基づく万学統一の霊感を得た。20年軍籍を離れヨーロッパ各地を転々とし、29年以降オランダに隠棲、哲学研究に没頭。33年『宇宙論 Le Traité du monde』を完成したがガリレオ裁判の報に出版を中止。37年3つの試論とともに『方法序説 Discours de la méthode』を出版。41年形而上学の主著『省察録 Meditationes de prima philosophia』、44年『哲学原理 Principia philosophiae』を出す。晩年は論争に悩まされつつ、49年『情念論 Les passions de l'âme』を出し、女王クルスチアナに請われスウェーデンに行き、そこに没した。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
オクタヴィオ・パス Octavio Paz
1914.03.31生~1998.04.19没
メキシコの詩人、評論家、外交官。少年時代から詩作、1930年代には前衛的な『タリエル』誌に拠る詩人たちの中心的存在となった。アメリカ留学後、外交官として世界各地に勤務、特にパリではブルトン、B.ペレらのシュルレアリストと親交をもった。詩集には『激しい季節 La estación violenta』(1958)、『世界の岸辺で A la orilla del mundo』(42)、『言葉のかげの自由 Libertad bajo palabra』(49)、『火の精 Salamandra』(62)、『東斜面 Ladera este』(69)、『帰還 Vuelta』(76)があり、1963年ベルギーの国際詩大賞、82年セルバンテス賞、90年ノーベル文学賞を受賞。ほかに古典的なメキシコ文化論『孤独の迷路 El laberinto de la soledad』(50)をはじめ、『木に倚(よ)りて魚を求む Las peras del olmo』(57)、『四学 Cuadrivio』(65)、『回転する記号 Los signos en rotación』(65)、『大いなる文法学者の猿 El mono gramático』(74)など、多数の評論がある。
竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
お気に入りの一言を見つけてください。
この動画でご紹介している名言の発言者は以下のとおりです。
クリスティナ・ロセッティ Christina Georgina Rossetti
1830.12.05生~1894.12.29没
イギリスの女流詩人。ロセッティ兄妹の末妹。処女詩集『妖魔の市 Goblin Market and Other Poems』(1862)でラファエル前派の作風を示し、その後『王子の旅 Prince's Progress』(66)、『歌の本 Sing-Song: a Nursery Rhyme Book』(72)、『新作詩集 New Poems』(96)などを発表。洗練された用語、確実な韻律法、温雅な情感がつくり出す詩境は、神秘的、宗教的な雰囲気を漂わせ、また長兄D.G.ロセッティと共通の色彩感や中世的要素が顕著で、イギリス女流詩人の最高峰に連なるもの。生涯に2度、信仰上の理由で結婚をあきらめ、恋愛詩の多くは愛の挫折の記録である。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
レッド・バーゼル(哲学者)
※ この人に関してはどうしても見つけられませんでした。
どなたかご存知の方がいらしたら、ご連絡いただきたいと思います。
ギルバート・キース・チェスタトン Gilbert Keith Chesterton
1874.05.29生~1936.06.14没
イギリスの批評家、小説家。H.ベロックと並ぶ、当代のカトリシズムの代表者。セント・ポール校を経てスレード美術学校で絵を、ロンドンのユニバーシティ・カレッジで文学を学んだのち、ジャーナリズムに入り、ユーモアに富んだ逆説や警句を駆使して、広い範囲にわたって健筆をふるい、G.B.ショー、H.G.ウェルズらと論争した。社会批評の領域では、土地再配分論の立場で『現世の欠点 What's Wrong with the World』(1910)を書き、文学批評の面では、『ブラウニング論 Robert Browning』(03)、『ディケンズ論 Charles Dickens』(06)、『ビクトリア朝文学論 The Victorian Age in Literature』(13)がある。また「進歩」思想に痛撃を加えた『正統とは何か Orthodoxy』(09)を書き、1922年カトリックに改宗、『アシジの聖フランシスコ St. Francis of Assisi』(23)、『永遠の人間 The Everlasting Man』(25)、『聖トマス・アクィナス St. Thomas Aquinas』(33)を著わした。その他、小説『ノッティング・ヒルのナポレオン The Napoleon of Notting Hill』(04)、短編集『木曜日の男 The Man Who Was Thursday』(08)、「ブラウン神父」が活躍する一連の推理小説(11~35)、詩、『自伝』(36)がある。
スペインの小説家。外科医の子に生れ、スペインやイタリアの各地を転々としたのち、レパントの海戦に参加して功績があったが、帰国の途中トルコ軍に捕らえられて5年間の虜囚生活をおくった。帰国後も投獄や破門を体験するなど、波乱に富んだ生活をおくりながら、1580年前後から創作を始め、1605年に『ドン・キホーテ Don Quixote』の前編、15年に後編を出して、「黄金世紀」の代表的な作家となった。ほかに、『模範小説集 Novelas ejemplares』(1596以前執筆)や、遺作となった『ペルシレスとシヒスムンダの苦難 Los Trabajos de Persiles y Sigismunda』(17)などの小説、『新作コメディア8編と新作幕間狂言8編 Ocho comedias y ocho entremeses nuevos』(15)などの劇作品、『パルナソの旅 Viaje del Parnaso』(14)などの詩作品がある。
デ・アンジェリスは3つの分野に渡り、14冊のベストセラー書籍を執筆している。そのうちには『How to Make Love All the Time』『Secrets About Men Every Woman Should Know』『Are You The One for Me?』『Real Moments』などがあり、いずれもニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーになっている。インフォマーシャル『Making Love Work』は1994年最優秀インフォマーシャルとして受賞した。
竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
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セオドア・アイザック・ルービン Theodore Isaac Rubin
1923~
医師、作家、アメリカ精神分析学研究所所長。大学卒業後、アメリカ精神分析学研究所で学ぶ、のち所長となる。この間、精神科医として診療するかたわら、『Ladies' Home Journal』や『McCalls'』などへコラム執筆やテレビ出演などで活躍。精神障害に光をあてるフィクション、ノンフィクションと多数執筆。著書に『Compassion and Self-Hate』『Reconcilation』『リアル・ラブ』、短編集に『物語に閉じこもる少年たち』などがある。
フランスの小説家。本名Marie-Henri Beyle。ナポレオンの第2回イタリア遠征に参加してイタリアの魅力を知る。1802年いったん除隊、1812年再びロシア遠征に加わる。ナポレオンの没落後イタリアに住み、芸術論や『恋愛論 De l'amour』(1822)を書く。1821年パリに戻り、小説『赤と黒 Le Rouge et le Noir』(1830)などを発表。七月革命後の1831年にイタリアのチビタベッキアの領事に任命され、自伝『エゴチスムの回想 Souvenirs d'égotisme』(1892刊)および『アンリ・ブリュラールの生涯 Vie de Henri Brulard』(1890刊)を書き、休暇中に7週間で傑作『パルムの僧院 La Chartreuse de Parme』(1839)を書き上げた。意志と情熱に満ちた人物たちの若々しい行動をむだのない文体で綴った彼の作品は、近代小説の傑作とされるが、生前には理解されなかった。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
ジョン・ミルトン John Milton
1608.12.09生~1674.11.08没
イギリスの詩人。ケンブリッジ大学に学ぶ。年少にして詩人を志し、『キリスト降誕の朝にあたりて On the Morning of Christ's Nativity』(1629)、『快活な人 L'Allegro』(31)、『沈思の人 Il Penseroso』(31)、仮面劇『コーマス Comus』(34)、『リシダス Lycidas』(37)などの名作を書いた。1642年内乱勃発後の約20年間は議会派の論客として活躍、言論の自由を論じた『アレオパジティカ Areopagitica』(44)など多くの政治的、宗教的パンフレットを執筆、また不幸な結婚の経験に基づき『離婚論 The Doctrine and Discipline of Divorce』(43)を著わした。49年以後共和政府のラテン語秘書として活躍したが、52年に失明。王政復古(60)後は逆境におかれたが、詩作に精進し、イギリス文学史上最大の叙事詩『失楽園 Paradise Lost』(67)をはじめ『復楽園 Paradise Regained』、『闘士サムソン Samson Agonistes』(ともに71)を書き、シェークスピアに次ぐイギリス最高の詩人の地位を確立した。
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マルセル・プルースト Marcel Proust(作家)
1871.07.10生~1922.11.18没
フランスの小説家。父は医学博士、母はユダヤ系。幼年時代母と祖母に溺愛され、病的ともいえる鋭敏な感受性を示した。早くから上流社交界に出入りする一方、文学に熱中し、優雅な小品を雑誌に発表、ラスキンの芸術哲学に傾倒した。1903、05年に相次いで両親を失い、持病の喘息が悪化したことを契機に、コルク張りの部屋にほとんどこもりきりになって、7巻15冊から成る大河小説『失われた時を求めて À la Recherche du Temps Perdu』(1913~27)を著わした。この作品は、人間の内面の「意識の流れ」を綿密に追うことにより従来の小説概念を大きく変革し、20世紀フランス文学最高の傑作といわれている。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
アラン Alain
1868.03.03生~1951.06.02没
フランスの哲学者。本名Émile Auguste Chartier。各地の高校教授を歴任し、ルーアンでプロポproposと題する短文を新聞に毎日寄稿し、これがやがて彼の著作の様式の柱となった。やがてパリのアンリ4世高校教授となり、第1次世界大戦を予告し、開戦とともに一兵卒として従軍、戦場で『精神と情念に関する81章 Quatre-vingt-un chapitres sur l'esprit et les passions』(1917)、『芸術論 Système des beaux-arts』(20)を書いた。J.ラニョーの影響を受け、デカルトやスピノザに傾倒する合理主義者であるが、独断的体系を拒み、短文をもって人々の思索を促すモラリストであった。彼のいう理性は単に哲学の原理にとどまらず、生全体の根底となる良識であった。彼の著作は広い領域にわたり、哲学者のみならず文学者にも深い影響を残している。ほかの著作、『幸福論 Propos sur le bonheur』(28)、『イデー Idéés』(32)、『わが思索のあと Histoire de mes pensées』(36)など。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
ユング Carl Gustav Jung
1875.07.26生~1961.06.06没
スイスの心理学者、精神分析学者。バーゼル大学で医学を修めたのちパリのピエール・M.F.ジャネのもとに留学。チューリヒ大学を経て1943年バーゼル大学教授。1948年チューリヒにユング研究所を設立。初め心霊現象などのオカルト研究に興味をもつ一方、ジグムンド・フロイト学説の熱心な支持者であったが、その後、A.メーダーと協同して、リビドーおよび無意識の概念について新しい展開を試み、分析的心理学を創始した。また、精神障害者の無意識を発見するために言語連想テストをつくり、コンプレックスの概念を考案した。主著『変容の象徴 Wandlungen und Symbole der Libido』(1912、改訂版Symbole der Wandlung 1952)、『タイプ論 Psychologische Typen』(1921)、『分析心理学への貢献 Contributions to Analytical Psychology』(1928)、『パーソナリティの統合 The Integration of the Personality』(1940)、『心理学と錬金術 Psychologie und Alchemie』(1944)、『空飛ぶ円盤 Ein Moderner Mythus』(1958)、『無意識の心理 Über die Psychologie des Unbewussten』(1960)。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
アレクサンドル・デュマ Alexandre (Devy de la Paileterie) Dumas
1802.07.24生~1870.12.05没
フランスの小説家、翻訳家。デュマ・ペール(父)と呼ばれる。膨大な作品を書いたが、小説よりむしろ戯曲によって、ロマン派を代表する作家となった。小説はほとんどが共作者の助力を得たもので、なかでもオーギュスト・マケの力が大きい。『三銃士 Les Trois Mousquetaires』(1844)、『モンテ=クリスト伯 Le Comte de Monte-Christo』(44~45)、『黒いチューリップ La Tulipe noire』(50)などの歴史小説によって世界中に親しまれている。戯曲では、通俗的ともいえる筋書を、情熱的で動きのある大団円に導く舞台感覚に恵まれている。なかでも『アンリ3世とその宮廷 Henri III et sa cour』(29)は大成功を収めた。ほかに『アントニー Antony』(31)など。
動画はそのまま「アンソニー・トロコップ」としていますが、ここでは「アンソニー・トロロープ Anthony Trollope」の概略を記しています。
アンソニー・トロロープ Anthony Trollope
1815.04.24生~1882.12.06没
イギリスの小説家。ロンドンに生まれ極貧の家庭に育つ。郵便局に勤務しながら35年間に60巻の長編小説を書き、その間1日も公務を怠らなかったという精力家。その後西インド、北米、豪州、南アフリカに旅行し、それぞれの旅行記を発表。小説は健全な娯楽読物として非常な人気を博した。代表作『養老院長 Warden』(1855)、『バーチェスターの塔 Barchester Tower』(1857)、『医師ソーン Dr. Thorne』(1858)等。
──『新版・世界人名辞典 西洋編』
サマセット・モーム William Somerset Maugham
1874.01.25生~1965.12.16没
イギリスの小説家、劇作家。10歳のとき孤児となり、叔父の牧師館に引取られた。ドイツやフランスに遊学ののち、ロンドンで医学を学んだが開業せず、自然主義的な小説『ランベスのライザ Liza of Lambeth』(1897)で作家生活に入った。第1次世界大戦には軍医として従軍、のちに諜報活動に転じ、戦争末期には革命直後のソ連をたずねた。大衆性を重んじる多作家であるが、代表作は自伝的小説『人間の絆 Of Human Bondage』(1915)。ほかに『月と六ペンス The Moon and Sixpence』(19)、『お菓子とビール Cakes and Ale』(30)、『剃刀の刃 The Razor's Edge』(44)、短編集『木の葉のそよぎ The Trembling of a Leaf』(21)、戯曲『ひとめぐり The Circle』(21)、『おえら方 Our Betters』(23)などがある。
アメリカの作家。故郷ケンタッキー州を夢の世界としてロマン的な筆致で描いた。代表作『目に見えぬ聖歌隊 The Choir Invisible』(1897)。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
ショーペンハウエル Arthur Schopenhauer
1788.02.22生~1860.09.21没
ドイツの哲学者。厭世思想の代表者。父は銀行家、母は小説家で、幼時より父に伴われてイギリス、フランス、スイス、オーストリアを旅行した。父の死後、1809年ゲッティンゲン大学に入学、11~13年ベルリン大学でフィヒテの講義を聞いた。14年母とけんか別れをし、以後、終生、お互いに会おうとしなかった。20年ベルリン大学講師となったが、ベルリンの哲学界はヘーゲルの支配下にあり、まもなく辞任、以後、在野の学者として、22~31年イタリア、ミュンヘン、ベルリンに住んだのち、31年以降フランクフルトアムマインに定住、また生涯、独身を通した。彼はカントの思想から多くをくみ、みずからカントの後継者をもって任じたが、生前は不遇で、51年『付録と補遺 Parerga und Paralipomena』でようやく世間の注目を集めた。しかし19世紀末のヨーロッパにおいて、彼の主意説と、東洋ことにインドの仏教思想と相通じる独特の厭世観とは広く顧みられるにいたり、ニーチェ、ワーグナーらに大きな影響を与えた。1911年ショーペンハウアー協会が設立され、翌年から年報が刊行されている。主著『意志と表象としての世界 Die Welt als Wille und Vorstellung』(1819)、『自然における意志について Über den Willen in der Natur』(36)など。
フランスの小説家、劇作家。エコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)に学ぶ。民衆劇の理想を掲げて『7月14日 Le Quatorze-Juillet』(1902)などの歴史劇を書いたのち、『ベートーベンの生涯 Vie de Beethoven』(03)などの理想を追求してやまぬ天才たちの伝記を発表、ある音楽化の生涯を描く大河小説『ジャン=クリストフ Jean-Christophe』(04~12)によって世界的な名声を得た。ドイツ文化に深い理解を示し、第1次世界大戦に際しては、国際主義の立場からフランス、ドイツ両国の偏狭な愛国主義を批判する『戦いを超えて Au-dessus de la mêlée』(15)を発表、波紋を投げた。ほかに、ラブレー的な闊達さを示す小説『コラ・ブルニョン Colas Breugnon』(19)、大作『魅せられたる魂 L'Ȃme enchantée』(7巻、22~23)などがある。1915年ノーベル文学賞受賞。
フランスの小説家。本名Marie-Henri Beyle。ナポレオンの第2回イタリア遠征に参加してイタリアの魅力を知る。1802年いったん除隊、1812年再びロシア遠征に加わる。ナポレオンの没落後イタリアに住み、芸術論や『恋愛論 De l'amour』(1822)を書く。1821年パリに戻り、小説『赤と黒 Le Rouge et le Noir』(1830)などを発表。七月革命後の1831年にイタリアのチビタベッキアの領事に任命され、自伝『エゴチスムの回想 Souvenirs d'égotisme』(1892刊)および『アンリ・ブリュラールの生涯 Vie de Henri Brulard』(1890刊)を書き、休暇中に7週間で傑作『パルムの僧院 La Chartreuse de Parme』(1839)を書き上げた。意志と情熱に満ちた人物たちの若々しい行動をむだのない文体で綴った彼の作品は、近代小説の傑作とされるが、生前には理解されなかった。
竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
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ヘンリー・デイヴィッド・ソロー Henry David Thoreau
1817.07.12生~1862.05.06没
アメリカの随筆家、詩人。ハーバード大学卒業後、エマソンを中心とする「超絶クラブ」の一員となり、機関誌『ダイアル』に寄稿する一方、1845~47年ウォールデン湖畔に小屋を建て、ほとんど自給自足の生活をした。この実験的生活の記録が『ウォールデン──森の生活 Walden, or Life in the Woods』(1854)で、超絶主義の主張の実践として、またエコロジー思想の先駆として後世に大きな影響を及ぼした。生前に出版した著書はこのほか『コンコード川とメリマック川の一週間 A Week on the Concord and Merrimack Rivers』(49)だけであったが、死後、1906年に刊行された全集は日記を中心に20巻を数え、ほかに『全詩集 Collected Poems of Henry Thoreau』(1943)、『書簡集 The Correspondence of Henry David Thoreau』(58)もある。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
アイザック・ディネセン Isak Dinesen (ブリクセン Karen Blixen)
1885.04.17生~1962.09.01没
デンマークの女流作家。イギリス、アメリカではIsak Dinesenの名で知られる。ディネセンは旧姓。父は軍人で作家。いとこのブリクセン男爵と結婚、美貌と才気で社交界の花形となったが、1914年ケニアに渡り、夫とも別れて山地で久しくコーヒー園を経営、それに失敗してから作家として立った。英語で書いた『7つのゴシック風物語 Seven Gothic Tales』(1934)が、怪異な題材と高踏的な香り高い文体で、たちまち彼女を謎の作家として有名にした。ほかに『アフリカから Out of Africa』(37)、『冬の物語 Winter's Tales』(42)、『草の上の影 Skygger på Græsset』(60)など。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ Lev Nikolaevich Tolstoi
1828.09.09生~1910.11.20没
ロシアの小説家。伯爵家に生れ、幼くして両親を失った。1847年カザン大学中退。故郷に帰り、農民の生活改革を試みたが失敗。51年カフカズで軍務についていた兄のもとに行き、美しい自然のなかで文学に開眼し、自伝3部作の『幼少時代 Detstvo』(1852)、『少年時代 Otrochestvo』(54)、『青年時代 Yunost'』(57)で新進作家としての地位を確立した。57年最初のヨーロッパ旅行に出、ヨーロッパ文明に対する懐疑をいだいた。62年結婚、文筆活動に専念し、二大名作『戦争と平和 Voina i mir』(63~69)『アンナ・カレーニナ Anna Karenina』(73~77)を完成した。宗教論文『懺悔 Ispoved'』(79、82加筆)や『イワンのばか Skazka ob Ivane-Durake』(85)をはじめとする民話を書き、のちに「トルストイ主義」と呼ばれた思想に忠実な活動を行い、私有財産の否定、非戦論、非暴力主義を唱えた。ほかに小説『イワン・イリイッチの死 Smert' Ivana Il'icha』(86)『クロイツェル・ソナタ Kreitserova Sonata』(91)『復活 Voskresenie』(89~99)、戯曲『闇の力 Vlast' t'my』(87)などの文学作品を書いたが、最後まで安らぎは得られず、1910年家出、リャザン=ウラル鉄道の小駅、アスターポボ(現在のレフ・トルストイ駅)の駅長官舎で没した。
──『ブリタニカ国際大百貨事典』
スティーブンソン Robert Louis Stevenson
イギリスの小説家、詩人、随筆家。エディンバラ大学卒業。若くして肺を病み、転地のため旅を重ね、1890年以後南太平洋のサモアに定住。旅行記に『内地舟行 An Inland Voyage』(1878)、『ろばを連れて Travels with a Donkey in the Cevennes』(79)があり、随筆では『若き人々のために Virginibus Puerisque』(81)が有名。小説には軽妙な短編集『新アラビアン・ナイト New Arabian Nights』(82)、冒険物語『宝島 Treasure Island』(83)、怪奇な寓話『ジキル博士とハイド氏 The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde』(86)などがある。童謡集『子供のうたの花園 A Child's Garden of Verses』(85)は彼の詩才を示し、書簡集にも魅力ある人柄がよく表われている。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
ジョージ・ハーバート George Herbert
1593.04.03生~1633.03.01没
イギリスの詩人、聖職者。ハーバード・オブ・チャーベリーの弟。ケンブリッジ大学出身。名門出の俊英で、宮廷での活躍を期待されたが、「田舎司祭」として静かな生涯を終えた。死の直前友人ニコラス・フェラーに送って出版か焼却かをまかせた詩集『聖堂 The Temple』(1663)によって、宗教的形而上詩人としての不動の地歩を占めている。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
シラー Johann Christoph Friedrich Schiller
1759.11.10生~1805.05.09没
ドイツの劇作家、詩人。軍医の子として生れ、君主の命により軍人学校で法律や医学を学んだが、「シュトゥルム・ウント・ドラング」の吹荒れるなかで戯曲『群盗 Die Räuber』(1781)を執筆、マンハイムでの初演(82)の成功を機に、劇作家としてはなばなしい出発をとげた。以後各地を転々としつつ戯曲、思想詩、歴史評論などを次々に発表し文名を高めた。1789年からイェナ大学で歴史を講じ、99年末からはワイマールに居住。94年から没年まで続いたゲーテとの交友はドイツ古典主義となって結実した。シラーはゲーテとは対照的な資質をもち、人類の理想への情熱に燃えて短い生涯を激しく生抜いた。おもな戯曲に『たくらみと恋 Kabale und Liebe』(84)、『ドン・カルロス Don Carlos』(87)、3部作『ワレンシュタイン Wallenstein』(98~99)、『マリア・スチュアルト Maria Stuart』(1800)、『オルレアンの乙女 Die Jungfrau von Orleans』(01)、『ウィルヘルム・テル Wilhelm Tell』(04)など。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
スティーヴ・バウマン
※ 残念ながら、この人に関しては概略を見つけることはできませんでした。
引用句から検索しても、考えられるスペルで検索しても、だめでした。
ご存知の方、ご連絡ください。
アレグザンダー・ポープ Alexander Pope
1688.05.21生~1744.05.30没
イギリスの詩人、批評家。ドライデンと並ぶイギリス古典主義文学の代表的詩人。カトリックの富裕な家に生れたが、病気のため発育が著しく阻害された。伝統的な主題を完璧な技巧で処理して、田園詩、教訓詩、書簡詩、英雄詩などの形式を自由に駆使した。最も得意とする風刺詩では『愚人列伝 The Dunciad』(1728)が特に有名である。また当時の理神論に基づく哲学詩『人間論 An Essay on Man』(33~34)はこの時代特有の作品として注目すべきもの。ホメロスの翻訳(15~26)により大金を得て、テムズ河畔トウィックナムに広大な館を構え、文学者の経済的独立を達成した顕著な一例となった。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
ウィリアム・ジェームズ William James
1842.01.11生~1910.08.26没
アメリカの哲学者、心理学者。いわゆるプラグマティズムの指導者。小説家H.ジェームズ(1843~1916)の兄。1861年ハーバード大学理学部へ入学、のち同大学の医学部へ移籍。67~68年ドイツに留学し、フランスの哲学者C.ルヌービエ(1815~1903)などの影響を受け、心理学、哲学に心をひかれた。69年卒業、学位を得たが開業せず、療養と読書に過した。72年ハーバード大学生理学講師。のち心理学に転じ、伝統的な思考の学としてではなく生理心理学を講じ、実験心理学に大きな貢献をした。また、ドイツの心理学者C.シュトゥンプ(1848~1936)を高く評価。さらに宗教、倫理現象の研究に進み、その後哲学の研究に入った。その立場は根本的経験論に基づく。そのほか、82年頃から心霊学に興味をもち、アメリカ心霊研究協会の初代会長をつとめた。主著『心理学原理 The Principles of Psychology』(1890)、『信ずる意志 The Will to Believe and Other Essays in Popular Philosophy』(97)、『宗教的経験の諸相 The Varieties of Religious Experience』(1901~02)、『根本経験論 Essays in Radical Empiricism』(12)。
竹内まりや Takeuchi Mariya さんの『元気を出して』のメロディーにのせてお届けする名言集。
悲しかったり、自信をなくしたり、落ち込んだりしたときに、勇気をくれる言葉を集めました。
このシリーズは12本の動画で構成されていますが、全部を見る必要はありません。
お気に入りの一言を見つけてください。
この動画でご紹介している名言の発言者は以下のとおりです。
シドニー・ガブリエル・コレット Sidonie-Gabrielle Colette
1873.01.28生~1954.08.03没
フランスの女流作家。20世紀前半の最も著名な女流作家の一人。20歳で40代の作家ウィリー(本名H. Gauthier-Villars)と結婚、夫のすすめで書いた少女時代を扱う自伝的小説『学校のクローディーヌ Claudine à l'école』以下4冊のクローディーヌ・シリーズ(1900~03)によって認められた。1906年離婚後、ミュージック・ホールの舞台に立ち、13年に再婚した。第1次世界大戦に記者として従軍、20年に五十女と17歳の若者の愛欲を描いた『シェリ Chéri』を出版、以降次々と傑作を発表。伝統的心理小説の手法を用いながら、鋭敏な感覚と洗練された感性で未知の領域を開拓した。主著『青い麦 Le Blé en herbe』(23)、『第二の女 La seconde』(29)、『牝猫 Chatte』(33)。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ Lev Nikolaevich Tolstoi
1828.09.09生~1910.11.20没
ロシアの小説家。伯爵家に生れ、幼くして両親を失った。1847年カザン大学中退。故郷に帰り、農民の生活改革を試みたが失敗。51年カフカズで軍務についていた兄のもとに行き、美しい自然のなかで文学に開眼し、自伝3部作の『幼少時代 Detstvo』(1852)、『少年時代 Otrochestvo』(54)、『青年時代 Yunost'』(57)で新進作家としての地位を確立した。57年最初のヨーロッパ旅行に出、ヨーロッパ文明に対する懐疑をいだいた。62年結婚、文筆活動に専念し、二大名作『戦争と平和 Voina i mir』(63~69)『アンナ・カレーニナ Anna Karenina』(73~77)を完成した。宗教論文『懺悔 Ispoved'』(79、82加筆)や『イワンのばか Skazka ob Ivane-Durake』(85)をはじめとする民話を書き、のちに「トルストイ主義」と呼ばれた思想に忠実な活動を行い、私有財産の否定、非戦論、非暴力主義を唱えた。ほかに小説『イワン・イリイッチの死 Smert' Ivana Il'icha』(86)『クロイツェル・ソナタ Kreitserova Sonata』(91)『復活 Voskresenie』(89~99)、戯曲『闇の力 Vlast' t'my』(87)などの文学作品を書いたが、最後まで安らぎは得られず、1910年家出、リャザン=ウラル鉄道の小駅、アスターポボ(現在のレフ・トルストイ駅)の駅長官舎で没した。
──『ブリタニカ国際大百貨事典』
ガブリエル・ロレンハーゲン(ロレンハジウス) Gabriel Rollenhagen (Rollenhagius)
アメリカの詩人。ボードゥン大学卒業。同級にホーソーンがいた。その後3年間のヨーロッパ留学を経て、母校の近代語学教授(1829~35)をつとめた。1835年再度ヨーロッパに渡り、ノバーリス(1772~1801)などドイツ・ロマン派の影響を受けた。帰国後ハーバード大学教授(36~54)。その詩は感傷性、教訓性が目立つがリズムにすぐれ、特に『エバンジェリン Evangeline』(47)、『ハイアワサ The Song of Hiawatha』(55)、清教徒軍人の恋を描く『マイルズ・スタンディッシュの求婚 The Courtship of Miles Standish』(58)などの長編物語詩は広く愛読された。そのほか、詩集『夜の声 Voices of the Night』(39)、『民謡 Ballads and Other Poems』(42)、物語詩『路傍の宿物語 Tales of a Wayside Inn』(63~73)、詩劇3部作『クリスタス Christus』(72)、ダンテ『神曲』の翻訳(65~67)など多数。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
シモーヌ・ド・ボーボワール Simone de Beauvoir
1908.01.09生~1986.04.14没
フランスの女流作家、評論家。実存主義文学の代表者の一人。ブルジョアの生れで、パリ大学文学部在学中にサルトル(1905~1980)を知り、生涯にわたる関係を結ぶ。1929年教授資格を取得、パリをはじめ各地のリセ(高等中学校)で教鞭をとったが、43年以降教壇を去り、哲学、政治、社会問題など多岐にわたる著作活動を続けた。小説には『招かれた女 L'Invitée』(1943)、『他人の血 Le Sang des autres』(44)、『レ・マンダラン Les Mandarins』(54、ゴンクール賞)があり、評論には『人間について Pyrrhus et Cinéas』(44)、『多義性のモラルのために Pour une morale de l'ambigüté』(47)、浩瀚な女性論『第二の性 Deuxième Sexe』(49)、『老い La Vieillesse』(70)。ほかに、旅行記『アメリカその日その日 L'Amérique au jour le jour』(48)、『長征 La Longue Marche』(57)、回想録『娘時代 Mémoires d'une jeune fille rangée』(58)、『女ざかり La Force de l'âge』(60)、『事物の力 La Force des choses』(63)などがある。66年サルトルとともに来日した。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
ウィリアム・シェイクスピア William Shakespeare(劇作家)
1564.04.26生~1616.04.23没
イギリスの詩人、劇作家。公式には4月23日が誕生日とされている。裕福な商人の長男として生れ、父は一時町長に選ばれたが、まもなく没落したため、彼は土地のグラマー・スクールに通っただけで、大学に進んだ形跡はない。18歳のとき8歳年長のアン・ハサウェーと結婚、1男2女を得たが、その後の数年間については伝記的資料が皆無のため種々の憶測が行われている。おそらく20歳を過ぎてまもなくロンドンに出て劇界に入り、俳優として出発、やがて劇作に転じたものと思われる。劇作は1590年頃から開始され、最初はバラ戦争を主たる背景とする『ヘンリー6世 Henry VI』(3部作1590~92)、『リチャード3世 Richard III』(93)、笑劇に近い喜劇『じゃじゃ馬ならし The Taming of the Shrew』(94)を書いていたが、94年宮内大臣お抱え一座の幹部座員となるに及んで偉大な劇作家としての本領を発揮しはじめ、『ロミオとジュリエット Romeo and Juliet』(95)、『夏の夜の夢 A Midsummer Night's Dream』(95)、『リチャード2世 Richard II』(95)などの抒情的な作品を発表、さらに愛の喜劇のなかにシャイロックの悲劇を描いた『ベニスの商人 The Merchant of Venice』(96)、フォールスタッフの登場で有名な『ヘンリー4世 Henry IV』(2部作97)、生の歓喜のなかにも生きることのさびしさや、ときには生の倦怠さえも暗示する『お気に召すまま As You Like It』(99)、最高の喜劇『十二夜 The Twelfth Night』(1600)を書いた。続く数年間は「悲劇時代」と呼ばれ、生と死、善と悪、罪と罰、仮象と真実など人間の根本問題をテーマとした『ハムレット Hamlet』(1600)、『オセロ Othello』(04)、『リア王 King Lear』(05)、『マクベス Macbeth』(06)の四大悲劇を創作した。1608年頃から許しと和解を主題にしたいわゆるロマンス劇に転じ、『シンベリン Cymbeline』(09)、『冬の夜ばなし The Winter's Tale』(10)、単独作としては最後の『あらし The Tempest』(11)を書いた。詩としてはサウサンプトン伯に捧げた物語詩『ビーナスとアドニス Venus and Adonis』(1593)、『ルクリースの凌辱 The Rape of Lucrece』(94)、英詩では最大にして最高の『ソネット集 Sonnets』(1609)などがある。天成の詩人であった彼は無韻詩を縦横に駆使して韻文劇を創作し、その内容の深さと相まって最高の戯曲をつくり出した。その伝記には不明な部分があるため、シェークスピアの実在に疑問をいだく説(たとえばシェークスピアはF.ベーコンの筆名であるという)もあったが、現在では顧みられない。