タイトル画面に用いた写真はAC WORKSさんではなく、ウィキペディア(By Túrelio, CC BY-SA 2.0 de, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2246938)から拝借しました。
肖像写真を手に入れる前に、背景のデザインをしていたんですが、図らずもマザー・テレサの着ている修道服と同じ色合いになって、ビックリ。
偶然なのか、必然だったのか、きっと神様のお導きなんでしょうね。
さて、そのマザー・テレサの生涯の概略を見てみましょうか。
マザー・テレサ Mother Teresa
1910.08.27生~1997.09.05没
アルバニア系のカトリック修道女。フルネームBlessed Mother Teresa of Calcutta。本名Agnes Gonxha Bojaxhiu。マザーテレサ、カルカッタのテレサ、Blessed Teresa of Calcuttaとも呼ばれる。インドのカルカッタの最貧民や遺棄されて死に瀕した病人、老人、子供のため献身的な活動を行なった。現代における最も徹底した愛の使徒として知られる。1928年インドに渡り、ロレット会の修道女としてカトリック系女子高校で教えたが、1946年修道会を出てスラムで働く。1950年厳しい清貧を守りつつ悲惨な境遇の人々に奉仕する「神の愛の宣教者会 Order of the Missinaries of Charity」を設立、1965年からは活動をインド国外にも広げ、1978年には同系の男子修道会が東京都台東区に支部を置いた。1952年「死を待つ人の家 Place of the Pure of Heart」、ハンセン病患者のための「平和の村 Town of Peace」設立。1971年にヨハネス23世教皇平和賞、1979年にノーベル平和賞受賞。1981、1982、1984年日本訪問。世界の宗教者平和会議WCRPなどで講演し、生命の尊厳とそのための施設づくりを提唱した。2003年、異例の早さで福者となった。
──『ブリタニカ国際大百科事典』
"The wish for peace", it will come true with a means to make a contribution.
"cocolo supplie" do it on behalf of each of you which depends on how many times you watch this video.
In brief, you will help the world.
So, please share this as many as you can.
Lord, make me an instrument of your peace,
Where there is hatred, let me sow love;
where there is injury, pardon;
where there is doubt, faith;
where there is despair, hope;
where there is darkness, light;
where there is sadness, joy;
O Divine Master, grant that I may not so much seek to be consoled as to console;
to be understood as to understand;
to be loved as to love.
For it is in giving that we receive;
it is in pardoning that we are pardoned;
and it is in dying that we are born to eternal life.
1181(1182?)生~1226.10.03没
フランシスコ修道会(清貧と説教を中核とするカトリック托鉢修道会)の創立者。イタリアの守護聖人(祝日10月4日)。フランシスコとも呼ばれる。イタリア名 Giovanni Francesco Bernardone。ラテン語、フランス語、吟遊詩人の文学を学び、軍人生活に入ったが、スポレトで幻視を得て帰郷し、世俗的財と家族の絆を捨て清貧の生活に入った。サン・ダミアノ聖堂を再建し、キリストのことばを聞いて説教を開始。弟子が集まると単純な生活戒律をつくり、1209年教皇の許可を得た。1212年アッシジのクララ(1194~1253)を中心とする女弟子を定住させて戒律を与え、クララ会を創始。1221年フランシスコ会第三会を始めた。会は国外にも休息に発展。1217年エジプトに渡ってスルタンに説教し、感服させて聖地巡礼を許されたという。帰国して新しい戒律を編み、1223年教皇の許可を得た。1224年夏ラベルナ山において聖痕を受け、盲目となって生涯を終えた。ジョット・ディ・ポンドーネら多くの画家によって描かれた。アッシジにフランチェスコ博物館がある。
──『ブリタニカ国際大百科事典』