シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー Charles-Louis de Montesquieu
1689.01.18~1755.02.10
研究分野:教育哲学、歴史哲学、法律学、社会科学の哲学
主な概念:社会、法、権利、市民的不服従、民主主義、社会契約
フランスの啓蒙思想家、法律家、歴史家。1721年匿名で発表した『ペルシア人の手紙 Lettres persanes』でフランスの政治と社会を風刺、一躍脚光をあびる。28年アカデミー・フランセーズ入り。34年『ローマ人盛衰原因論 Considération sur les causes de la grandeur des Romains et de leur décadence』を同じく匿名で出版、48年には著名な『法の精神 De l'esprit des lois』をやはり匿名で発刊した。同書で説かれたいわゆる三権分立の理論は、後年アメリカ合衆国憲法に影響を与えるなど近代憲法理論に強く影響を及ぼしている。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』
フランスの作家、啓蒙思想家。本名François-Marie Arouet。著作は哲学、詩、戯曲、批評、歴史、小説、書簡などにわたり膨大。1726~28年のイギリス滞在後、『哲学書簡 Lettres philosophiques ou lettres anglaises』(1734)でイギリス経験論をフランスに導入、専制批判、教権批判を開始。理神論をとり、無神論に反対したが、狂信や偏見を激しく攻撃し、カラス、シルバン、ラ・バール迫害事件に際しては寛容を訴えた。またディドロらの百科全書派の運動を支持し、フランス革命の精神的基盤を準備した。合理精神に培われた最もフランス的な明快で機知にあふれる18世紀散文の創始者、すぐれた風刺作家として独自の地位を占めている。悲劇『ザイール Zaïre』(32)、小説『ザディグ Zadig』(47)、『カンディド Candide』(59)、歴史書『ルイ14世の世紀 Le Siècle de Louis XIV』(51)、『習俗論 L'Essai sur les mœurs』(56)、『哲学辞典 Dictionnaire philosophique portatif』(64)など。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』
フランスの作家、思想家。当時の人工的退廃的社会を鋭く批判、感情の優位を強調し、「自然に帰れ」と説き、ロマン主義の先駆をなした。思想、政治、教育、文学、音楽などの分野において根本的な価値転換作業を行い、近代思想に多大な影響を与えた。主著『人間不平等起源論 Discours sur l'origine de l'inégalité parmi les hommes』(1755)、『新エロイーズ Julie, ou la nouvelle Héloïse』(61)、『社会契約論 Du contrat social』(62)、『エミール Émile』(62)、『音楽辞典 Dictionnaire de musique』(68)、死後刊行の『告白 Les Confessions』(82)。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』
ドイツの哲学者。近世哲学を代表する最も重要な哲学者の一人であり、またフィヒテ、シェリング、ヘーゲルと展開した、いわゆるドイツ観念論の起点となった哲学者。批判的(形式的)観念論、先験的観念論の創始者。1740~46年生地の大学で神学、哲学を学んだ。卒業後、家庭教師を長い間つとめ、55年ケーニヒスベルク大学私講師。その後、エルランゲン、イェナ各大学から招かれたが固辞し、70年ケーニヒスベルク大学の論理学、形而上学教授となった。96年老齢のため引退。主著『純粋理性批判 Kritk der reinen Vernunft』(1781)、『実践理性批判 Kritik der praktischen Vernunft』(88)、『判断力批判 Kritik der Urteilskraft』(90)。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』
ドイツの哲学者。厭世思想の代表者。父は銀行家、母は小説家で、幼時より父に伴われてイギリス、フランス、スイス、オーストリアを旅行した。父の死後、1809年ゲッティンゲン大学に入学、11~13年ベルリン大学でフィヒテの講義を聞いた。14年母とけんか別れをし、以後、終生、お互いに会おうとしなかった。20年ベルリン大学講師となったが、ベルリンの哲学界はヘーゲルの支配下にあり、まもなく辞任、以後、在野の学者として、22~31年イタリア、ミュンヘン、ベルリンに住んだのち、31年以降フランクフルトアムマインに定住、また生涯、独身を通した。彼はカントの思想から多くをくみ、みずからカントの後継者をもって任じたが、生前は不遇で、51年『付録と補遺 Parerga und Paralipomena』でようやく世間の注目を集めた。しかし19世紀末のヨーロッパにおいて、彼の主意説と、東洋ことにインドの仏教思想と相通じる独特の厭世観とは広く顧みられるにいたり、ニーチェ、ワーグナーらに大きな影響を与えた。1911年ショーペンハウアー協会が設立され、翌年から年報が刊行されている。主著『意志と表象としての世界 Die Welt als Wille und Vorstellung』(1819)、『自然における意志について Über den Willen in der Natur』(36)など。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』
ドイツの哲学者。1869年バーゼル大学古典文献学教授となり、1870年普仏戦争に志願従軍、1879年健康すぐれず同大学の教授を辞任し、以後著述に専念したが、1889年精神病が昂じ、1900年に没した。アルツール・ショーペンハウアー(ショーペンハウエル)、リヒアルト・ワーグナーの影響を受け、芸術の哲学的考察から出発し、ディオニュソス的精神からの文化の創造を主張したが、しだいに時代批判、ヨーロッパ文明批判に向かい、特に最高価値を保証する権威とされてきたキリスト教や近代の所産としての民主主義を、弱者の道徳として批判し、強者の道徳として生の立場から新しい価値創造の哲学を、超人、永遠回帰、権力への意志、運命の愛(アモーレ・ファティ)などの独特の概念を用いて主張した。ニーチェの哲学はナチスに利用されたこともあったが、今日ではセーレン・A.キルケゴール(1813~1855)と並んで、実存哲学の先駆者、新しい価値論の提示者として新たに照明があてられている。日本では高山樗牛以来多くの人々により紹介、翻訳されている。主著『ツァラトゥストラはかく語りき Also sprach Zarathustra』(1883~85)、『権力への意志 Der Wille zur Macht』(1901)、『善悪の彼岸 Jenseits von Gut und Böse』(1886)、『道徳の系譜 Zur Genealogie der Moral』(87)など。 ──『ブリタニカ国際大百科事典』