2016年6月28日火曜日

書物についての優れた名言 ― EXCELLENT QUOTES ON BOOKS

《日本語版 Japanese version》


《英語版 English version》

この動画で使用させていただいたのは AC WORKS さんの写真です。
音楽は HURT RECORD さん(www.hurtrecord.com)のものですが、別のビデオでも使わせていただいています。
その記事はこちら
http://cocolosupplie.wix.com/cocolo-supplie-blog#!scenery-havent-seen-yet-未だ見ぬ景色/c218b/5703c4b40cf2efb3747c663b
著作権フリーBGM配布サイト HURT RECORD ロゴ素材
日本語版・英語版ともに同じ写真、音楽です。

9人の名言を紹介していますが、それぞれの生い立ちなどを見ていきましょう。
すべて『ブリタニカ国際大百科事典』からの引用です(一部抜粋 ※ロバート・G・インガソルのみWikipedia)。
ただ、リュウカンに関してはどうしても該当の人物が見当たりませんでした。
おそらく中国の人だろうと思うのですが、検索してもゲームのキャラクターしかヒットしないんですよね。
名言からも検索したんですが、これも人物にたどり着きませんでした。


◆ウォルト・ディズニー Walt Disney
Walter Elias Disney
1901.12.05生~1966.12.15没
アメリカ合衆国シカゴで生を受けたアニメーション映画制作者。1928年『蒸気船ウィリー(Steamboat Willie)』でアニメーション映画初のトーキー化に成功し、ミッキーマウス、ドナルドダックの生みの親として世界的に人気を博す。1937年初のカラー長編アニメーション映画『白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs)』を制作、以降『ピノキオ(Pinocchio)』(1940)、『ファンタジア(Fantasia)』(1940)、『ダンボ(Dumbo)』(1941)、『バンビ(Bambi)』(1942)、『不思議の国のアリス(Alice in Wonderland)』(1951)、『眠れる森の美女(Sleeping Beauty)』(1959)などを発表。まんが映画のほかに『メリー・ポピンズ(Mary Poppins)』(1964)などに代表される家族向け娯楽映画、さらに記録映画も制作。1955年には巨大な遊園施設ディズニーランドをカリフォルニア州アナハイムに開設した。

◆ジョン・ラスキン John Ruskin
1819.02.08生~1900.01.20没
イギリスの著述家、美術評論家、画家。オックスフォード大学在学中に絵画を修業、1840~42年学業を中断してイタリアへ旅行。J.ターナー(1775~1851、イギリスの風景画家)の影響を強く受け、卒業後彼に関する最初の論文『近代画家論(Modern Painters)』第1巻を著述(1843)。その後イタリアで絵画、建築を研究し、『建築の七燈(The Seven Lamps of Architecture)』(49)を完成し、またベネチアの教会、宮殿のデッサン、水彩画をまとめて『ベネチアの石(The Stones of Venice)』(51~53)として出版。60年には『近代画家論』第5巻を著した。69年オックスフォード大学美術史教授に就任。晩年は芸術と社会の関連から社会問題、経済問題に取り組んだ。なお彼の魅力ある自伝『過ぎしことども(Praeterita)』(85~89)は彼の死により未完に終わった。

◆トーマス・アルヴァ・エジソン Thomas Alva Edison
1847.02.11生~1931.10.18没
アメリカの発明家、企業家。年少の頃から正規の教育を受けず、図書館などで独学。非常な努力家で、列車内で新聞売りをしながら実験室をつくった逸話は有名。1863年に電信技士となり、各地を放浪。その間手当たり次第に科学雑誌を読破。特にM.ファラデーの『電気学の実験的研究』に魅せられた。68年投票記録機で最初の特許を得たが、需要がまったくなく、不成功に終わった。それ以降需要のあるものだけの発明に専心し、数々の発明品を世に送った。76年メンローパークに応用科学研究所を創設。1000件を越す発明を達成し、企業化に努力した。蓄音機(1877)、白熱電球(79)、活動写真(91)など発明は人々の生活を一変させた。彼には83年のエジソン効果の発見のように純科学的業績もあり、自然科学者としても十分に通用する人であった。

◆ナポレオン・ボナパルト Napoleon Bonaparte
1769.08.15生~1821.05.05没
フランス第一帝政の皇帝(在位1804~14)。コルシカ人貴族の家に生まれ、フランスで教育を受け、パリ士官学校を卒業(1785)。フランス革命初期にはジャコバン・クラブに入会し、コルシカ独立運動に参加したが、指導者パオリと衝突し、1793年一家をあげてフランスに亡命。同1793年ニースの連隊に復帰したが、この頃からナポレオン・ボナパルトと呼ばれるようになった。1796年3月9日ジョゼフィーヌと結婚。カンポフィルミオ条約によってイタリアで5年間続いた戦争は収拾され、ナポレオンの人気は頂点に達した。1798年7月エジプトに遠征、1799年11月E.シエイエスと結んでブリュメール18日のクーデターを断行し執政政府を樹立、軍事独裁を始めた。1804年5月に帝国成立が宣言されると皇帝に即位。以降産業振興、学制改革、行政、司法の再編成などを行った。1807~10年頃相次ぐ対外戦争の勝利によってその威信と権力は頂点に達したが、1814年5月エルバ島に流された。島を脱出したのち、ワーテルローでイギリス軍と戦って敗れ、セントヘレナ島に流されて同地で没した。

◆ロバート・G・インガソル Robert G. Ingersoll
Robert Green Ingersoll
1833.08.11生~1899.07.21日没
アメリカの弁護士、政治的指導者、不可知論者。隷制度廃止主義者の牧師だった父の急進的な考えによって、イリノイ州ピオリアに落ち着くまで頻繁に引っ越した。インガーソルはそこで弁護士に弟子入りし、一人で住むようになった。南北戦争後、イリノイ州検事総長を務めた。彼は当時今日よりは進歩的だった共和党の重要な党員となった。彼は党で地位につかなかったが、積極的に党の活動に参加した。1876年、ジェームズ・G・ブレインの推薦スピーチをした。ブレインは当選できなかったが、推薦スピーチが評判となった。演説が公共の楽しみであった時代、インガーソルは演説者として知られた。彼はシェークスピアの事から南北戦争後の事まで何でも話したが、彼のもっとも得意としたのは不可知論と尊厳と組織の堕落についてであった。彼の演説は3時間以上続くこともあったが、彼はそれを暗記していた。聴衆たちは退屈することが無かったという。

◆サミュエル・バトラー Samuel Butler
1835.12.04生~1902.06.18没
イギリスの小説家。初め聖職者を志してケンブリッジ大学に学んだが、既存のキリスト教にあきたらず、ニュージーランドに渡って牧羊業者として成功。1864年帰国して絵を描き作曲するかたわら文筆活動に従い、ビクトリア朝の社会を風刺したユートピア小説『エレホン(Erewhon)』(1872)、一家の歴史を描きつつ偽善的な宗教、倫理を痛撃した自伝的小説『万人の道(The Way of All Flesh)』(1903)をはじめ、宗教や進化論に関する著作、『エレホン』の続編『エレホン再訪(Erewhon Revisited)』(01)などを書いた。

◆リュウカン Liu Kang

◆モーティマー・アドラー Mortimer Adler
1902.12.28生~2001.06.28没
アメリカの哲学者、教育者、編集者。1928年コロンビア大学で哲学博士を取得。同大学で教えたのち、シカゴ大学法哲学教授となった。52年R.ハチンズとともに『Great Books of the Western World』54巻を編集、重要概念の索引であるを企画、編集した。同年サンフランシスコ(1964以降シカゴ)の哲学研究所所長、69年『ブリタニカ百科事典』第15版の編集責任者となった。主な著・編書に『How to Read a Book』(40)、『Gateway to the Great Books』(63、10巻)、『The Great Ideas Today』(61~)、『Annals of America』(20巻)などがある。

本を読むのが楽しくなるかもしれませんよ。

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